2011年3月アーカイブ

このままでは、ボランティアセンターなどが恐れていた「ボランティアの殺到」は一度も起きずに終わるでしょう。
新年度がもうじき始まるからです。

阪神大震災と違うのは、地震の発生時期。
1月17日に発生した阪神大震災では、新学期が始まる4月まで、2ヶ月半もの時間がありました。
春休みを利用できる学生が多く、ボランティアが殺到した一因になりました。

今回は地震発生が3月11日。
「ボランティア来るな」というネガティブキャンペーンが効き過ぎたこともあり、いまだにボランティアは絶対的な不足になっています。
しかももう3月月末。
新年度が始まり、大学などで授業が始まると、学生もおいそれとは被災地に入れなくなります。

一度でも被災地に入り、その惨状を目にすれば、「少しでもできることはないか」と、何とか時間に融通をつけてくる人は多いでしょうが、このまま被災地にはいることもなく新学期を迎えれば、「もう今さら」という気がする人が多くなり、ボランティアに向かう人はますますいなくなるでしょう。

「日帰りボランティアは邪魔」という愚かなボランティアセンターがありますが、私はあえて言います。
日帰りボランティアであっても、週末ボランティアでもよいから、まず、現地に行ってみてください。
確かに日帰りや週末ボランティアでは、大したことはできないでしょう。
しかし、「大したことはできない」と感じることは大切で、一度目にすれば、何が必要で、何をすべきかが見えてきます。
次に行くときには、あなたはもっと貢献できるようになるでしょう。

もしボランティアセンターに「もう手が足りている」といわれたら、そんなところを相手にせず、町を歩き、片づけをしている人を手伝ってあげてください。
仕事の割り振りが来るのを待っているより、自分で仕事を探してみてください。
必ず見つかります。

もしかしたら、第一回の訪問は何もできずに帰ることになるかも知れません。
それでも構いません。
その代わり、その日は現地をできるだけ広く、深く観察してください。
できるだけ多くの人たちから話を聞いてください。
そのときの訪問は無駄足に終わったとしても、きっと次にはどうすべきか、答えを持って帰れるはずです。

新年度が始まれば、もはやボランティアに向かうことができない人が大半でしょう。
しかし、被災地ではまだこれから苦難の時間が続きます。
もし皆さんに時間の余裕があるなら、ぜひ被災地に向かってみてください。

南相馬市の状況

福島原発付近の市町村には支援が届かず、食料不足で困窮している

という話をお聞きになっていると思います。

20〜30kmの自主避難地域に物資を届けている活動がありますので、

支援してください。


この活動をしている福島の●●さんと電話でお話をしました。

・自主避難地域(20〜30km)圏内には食料など物資が届いていない

仕分けする人も足りないし、運ぶ人がいない。

〜特に、南相馬市はたいへん

・飯館村の避難者も家に戻りつつある。

(放射能汚染はあるが、避難生活には金もかかるし長期化するから、

自宅のほうがましと考えてる)

が、しかし、店はみんな閉まっているので、食料などが手に入りにくい。


また南相馬ボランティアセンターとも話をしました。

・高齢者の物資届け、食糧配給、安否確認に手が回らない。

・一時閉じていたボランティアセンターを再開した

・来てくれるボランティアは10人程度で、まだまだ人手が欲しい。

(ちなみに、北にある相馬市は100人レベルのボランティアが訪れ、

ニーズも物資供給から、津波被災地の後片付けに変わってきてます。)


共感されましたら、以下の案内先に物資を送ってください。

皆さまのご協力に感謝しております。

 今の神戸の若い人たちは、神戸市が株式会社神戸と言われた時代があったことを知っているだろうか。この話をする時に、必ず、語らなければならない人がいる。宮崎辰雄元神戸市長である。氏の人生そのものが、株式会社神戸そのものであった。氏は、多感な高校時代から学生運動に紛争し、立命館大学に入ってからも、持ち前の正義感で学生運動を続ける。


 そして、氏は神戸市役所に入り、戦後の復旧、復興に携わることになる。氏のもつエネルギーは当時の上司であった原口元市長を市長に推すことでも力を発揮する。そして、氏は、その功績が認められ、三十歳代にして、神戸市助役、今で言う副市長に任命される。その後、わが国の高度成長期に乗り、神戸市も大きな発展を遂げていく。

 氏が神戸市長を辞任したのは、八十歳代半ば、まさに、半世紀以上に渡って神戸市政を牽引してきた。氏は、持ち前の反骨精神で、中央からの圧力をきらい、主に、開発事業など、数々の市独自の事業を成功させ、中央からの天下りは一切とらず、多くの収益を市独自で確保してきた。これが、株式会社神戸市と言われた所以である。

 早くは、山を削り、海を埋立て、人工島ポートアイランドを造成し、ポートピア81なる日本で先駆けの地方博覧会を開催し、大成功させ、博覧会跡地にはファッションタウンを形成し、土地を売却し、大きな収益を生んだ。また、同じこの手法で、六甲アイランド、ポートアイランド、ハーバーランド、神戸空港へと開発は続いていく。

 また、山間部には、地下鉄を走らせ、商業施設を開発し、付近に住宅販売を成功させていく。名谷、学園都市、西神などである。この手法は、やがて、地下鉄海岸線などでもいかされてきた。また、余談だが、氏と、刎頸の友であったダイエーの創業者中内功は、この沿線で店舗を出し続け、本社機能を神戸に置き続けた。

 これらの開発事業のもと、多くの土木、建設会社が育つとともに、それらに関係するあらゆる業界が神戸で大きく成長したことがわかる。まさに、神戸市の黄金時代である。また、特筆するべきことは、氏は、これらで掴んだ収益を夢にも使っていった。しあわせの村、農業公園、フルーツフラワーパーク、コンベンション施設、博物館など。

 しかし、氏の市長人生は、決して、順風だけではなかった。もともと、革新市政であった氏の市政運営には、保守系からの反発もあり、元文部大臣の砂田重民が自民党や経済界から押され、市長選に出たとこもあった。また、市の親族の経営する造園会社との疑惑が事件となったこともあった。しかし、これらの困難を乗り越え、氏が断固たる地位を築いていく。

 神戸市政は、氏が原口市長を押してから、約70年間、助役から市長、助役から市長へと市役所内部から排出され、事実上、氏の影響力をもつ職員から市長が決められていった。その間、市幹部が闘いを挑んだこともあったが、その派閥の人たちは無惨に窓際に追いやられた。兵庫県に対しても、同等、或は、氏が市長の時は、上の立場を堅持した。

 まさに清濁がわかる偉大な政治家、リーダーであった。80歳代まで、頭は切れまくった氏であったが、高齢化とともに、足も不自由となったが、氏に物を申す人材がいなくなった。政界では、高校時代の親友、国務大臣河本敏夫、官界では、元の大蔵事務次官石野信一を商工会議所に会頭に迎えいれ、強いネットワークで国をも動かしていく。

 氏が晩年力を入れた事業が神戸空港である。氏が、元文部大臣砂田重民と闘った時に、氏は、関西空港の神戸誘致反対の立場を取る。これが、氏の晩年の後悔につながる。氏は、側近の元市長総局長柳瀬氏らを実務の筆頭に、神戸空港開設の政財界の工作を命じる。そして、神戸空港事業が進もうとしている中、阪神淡路大震災が発生する。

 未曾有の大震災である。氏が人生を懸けて、築いてきた神戸の街が、戦後のように、再び、焼け野原となってしまった。また、日本経済も、高度成長期日から成熟期に入り、民間の開発型企業のどんどん窮地となっていった。時代の終焉を見るかのように、氏は世を去る。そして、それから優秀で従順な部下であった職員や職員OBが市役所を切り盛りするようになる。

 震災後、数々の論議はあったが、氏の遺言でもあった神戸空港は、強引なる手法をもって進められていく。神戸市の職員は、非常に優秀である。氏がトップダウンで市政をひっぱる中、誇りをもった優秀な人材が多く、役所に入ってきた。若き年齢で外郭団体に出向させ,経営感覚を学ばせ、本庁に戻していく。神戸市職員は本当に市役所をわが社と言う。

 しかしながら、今日、氏の作ったビジネスモデルは、完全に崩壊し、時代に通用しなくなった。ポートアイランド2期や神戸空港の埋め立て地がもう高値で売れることはない。従い、それらの収益で、借金を返すことは、もはや、不可能に近い。地下鉄海岸線も、大きな赤字を抱える。また、市役所内部では、優秀な人材より、無難な人材が幹部登用されがちになる。

 また、氏が時代をひっぱった間、あまりに、神戸市が何でもやりすぎ、神戸の民間企業は、衰えていったとも言える。1980年来では、京都と同じ規模であった上場企業の総資産も、今日では、京都に大きく開きをあけられてしまった。また、神戸経済の柱であった造船、鉄鋼なども、原子力や航空機事業などへと移行もあるが、もはや当時の活気はない。

 今、神戸経済は大きな行き詰まりを見せる。私は、学生時代に起業し、約30年間、毎日、この目で神戸市を内から外から見てきた。震災後は、開発事業を続ける市政に反発を感じ、批判もしてきたが、もはや、今、神戸市には、新たな開発などをする余裕すらない。神戸市絶頂期に入庁したエリート職員達からは、自分の人生、こんなはずでなかったと嘆きも聞こえる。

 私は、今、愛する神戸に対して思うことは、今や、まずいところがあっても、批判するだけでは、市政は良くならない。今こそ、産官民が真に協力しあい、新しい神戸を創造していかなければならない。繰り返しとなるが、神戸市職員は優秀である。トップが、きっちりとビジョンを示したら、立派に使命を遂行してくれる。

 神戸は、シンガポールと同じだけの規模がある。シンガポールは近年、その政策により、著しい発展を遂げた。来るべき、アジア新時代を見据え、アジアの金融、貿易、クリエィティブ、ソフト産業、そして、文化、芸術の拠点となるべき地域づくりこそ、今、求められている。市の職員も神戸にいる必要はない。新しいビジネスモデルを作るために、もっと、情報や人脈を築きに、アジアを飛びまくれば良いのである。

「ビジョンなきところに成長なし。」
神戸だからこそ、「産」、「官」、「民」で、
再び、「稼げる街」「幸せに暮らせる街」を築いていこうではないか。

一人の神戸市民からの願いである。

しばしこのMLの場をお借りして、被災地支援の情報を流させていただければと思います。

不快に思われる方がいらっしゃったら申し訳ありません。


20日に、山形県天童市に飛び、全国のからの支援物資の仕分けと整理作業に参加しました。

多くの方がおっしゃっているように、支援物資を送る際にはいろいろなものを詰め込まず、一種類のものを同じ箱に入れ、内容物を箱に明記して送っていただくと仕分けがずいぶん楽になります。


また賞味期限切れの食材や、ずいぶん汚れた衣類・寝具なども時折混ざっており、そうしたものはボランティアが随時発見し、廃棄処分にしています。


昨日からは、宮城県登米市に移動し、ここから各避難所に物資を届けるボランティアをしています。

カバーエリアは気仙沼・南三陸町・女川町です。

行政の手が行き届かない小さな自主避難所を主な支援対象にしています。


いま僕が所属しているのは日本エコツーリズムセンターですが、これに加え全国の環境教育・自然学校・アウトドア教育の関係者で災害救援ネットワーク(RQ市民災害救援センター)をつくり、混成部隊で現場で活動しています。行政から独立した自主部隊です。アウトドア系の人たちはこういうとき非常に強いです。テントを寝袋を持ち込み、あまり被災を受けなかったやや内陸の農村部の廃校をお借りし、基地にしています。


体育館に寝泊りしていますが、さすがに朝方はかなり冷え込みます。

http://www.ecotourism-center.jp/article.php/reliefe_01


行政機能そのものが麻痺しているこうした非常時には、阪神大震災のときもそうでしたが、自主的に自らを組織し、自己責任で機動的に動けるこうしたボランティア組織が非常に有効です。


三陸を中心とする沿岸部の被害はすざまじいものがあり、300キロメートルにわたって沿岸集落が消滅しています。

地域の復興はおろか、地域そのものが消滅してしまっているところがかなりあります。

いっぽう、同じ岩手・宮城・福島でも、内陸に入ると津波被害がなく、また地震自体による損壊被害も大きくなかったことにより、通常の市民生活が継続されている面もあります。


しかし、ガソリン不足はどこも深刻で、山形でも宮城でも、ガソリンを入れるために車が100台単位で列をなし、4〜5時間待って給油するという状態がどこでもあると聞いています。おそらく東北全体がそうではないでしょうか。


こんなとき農家は強い、という声をよく耳にします。米・野菜を作っている家は、とりあえず飢える心配もなく過ごしています。

ただ灯油が買えないことにより寒い思いをする年寄りが多くおり、健康を危ぶむ声もあります。


今回、津波被害を受けた地域の多くが古くからの漁村集落だったこともあり、伝統的なコミュニティーがまだ生きており、被災地が都市部だった阪神大震災のときと比べても、住民どうしの助け合いはかなり強固で、それが弱者を守ることにつながっています。日本の美しさを見る思いです。

また東北のみなさんは我慢強く、また謙虚で、支援物資を持っていっても、もっと大変なところに持っていってください、と言われることもしばしばです。


これから家を失った被災者のみなさんは仮設住宅に移っていくことになりますが、その際に世帯ごとにばらばらで入るのではなく、なるべくこの集落ごとのつながりそのままで集団移転できることが望ましいと思います。


阪神大震災のときは、神戸市内各区からばらばらに家を失った被災者が各仮設住宅に移ったために、コミュニティがすぐに形成されず、その間に多くの孤独死が発生してしまったという苦い教訓があります。


これからこうした自己責任・自己組織で自主的な活動ができるボランティア・NPO団体が活動できる余地がかなりあります。

まさに「新たな公共」ですね!


ではまたレポートします

参加報告ですが、いくつかのML、何人かの個人にBccで送信しています。
多くの人に知らせたいので、御迷惑かもしれませんが送らせてもらいました。
重複して受信された方は申し訳ありません。

 18日の午後に大阪府熊取町の京大原子炉実験所事務棟会議室で「チェルノ
ブイリ原発事故から25年」をテーマにした「第一一〇回原子力安全問題ゼミ
」があり、私も参加しました。参加者は、研究者、市民、報道関係者など一〇
〇人ほどで、主催は、原子力安全研究グループ(世話人・小出裕章)です。
 同ゼミは当初、旧ソ連の原子力開発に伴う調査研究のまとめの報告会だった
のですが、福島第一原発で大事故が起こったので急遽、福島原発事故、スリー
マイル島原発二号炉事故(九六万kW、アメリカ。一九七九年三月二八日)、
チェルノブイリ原発四号炉事故(一〇〇kW、旧ソ連ウクライナ共和国。一九
八六年四月二六日)の報告も冒頭に追加されました。
 小出裕章氏(京都大学原子炉実験所)が「福島原発事故の現状について」、
海老沢徹氏(原子力安全研究グループ。元京大原子炉実験所教員)が「スリー
マイル島原発二号事故の概要」、今中哲二氏(京都大学原子炉実験所)が「チ
ェルノブイリ原発事故の概要」についてそれぞれ報告しました。
 三氏はいずれも福島第一原発の事故がすでにスリーマイルを越え、チェルノ
ブイリに近づいていること、ほとんどデータ--が公表されていないこと、被曝
を受けながら懸命な作業で放水が続けられているが、最悪の事態に進むのを少
し遅らせることにしかならず根本的な解決になっていないと指摘し、それぞれ
の事故にも言及し、資料を示しながら報告しました。

 小出氏は、東京都台東区で三月一五日に独自に採取した大気中にヨウ素13
1、132、133、セシウム134、136、137などの放射性核種が検
出されたと報告し、燃料棒が破損した為に本来原子炉の中に閉じ込めなければ
ならない放射性物質が東京まで飛散していると指摘した。又、チェルノブイリ
事故直後の状況について、原発に隣接するプリチャチ市(人口四万五千人)の
住民は事故翌日にバスに乗せられ二、三日分の手荷物だけしか持たさずに避難
させられたが二度と戻れなかった。非常に広範囲に汚染され日本の法令に従え
ば放射線管理区域に指定される面積が一五万��にもおよび、日本の国土が三
七万��だから本州の六割に匹敵する。しかし、ソ連邦崩壊で管理ができなく
なり、ベラルーシ(旧白ロシア)、ウクライナ、ロシアにまたがる地域に今も
五六五万人が居住しているとのべた。最後に「パニックが起こるからと情報を
公表しないが、正しい情報が提供されたほうがパニックは起こらない」とのべ
た。

 海老沢氏は「一二日の昼、一号機の炉心に水がなくなった時点でスリーマイ
ルを越えたと思った」と前置きして、現時点ではもうとっくにスリーマイルを
はるかに越えているとのべ、スリーマイル島原発事故について詳しく報告した
。福島第一原発は沸騰水型でスリーマイルの加圧水型とは炉型が違い、炉心の
熱流動は異なっているが、冷却水が減少し燃料棒が露出すると燃料棒の破損が
進むなど類似性があるとの、事故当時の状況を「スリーマイル島事故調査報告
書」(アメリカ政府。一九八九年)の資料を示しながら報告した。同報告書で
は、炉心の温度が事故後一三〇分で八二七℃、一四五分後に二七二七℃に達し
、その後のジルコニウム(燃料棒外皮の材質)と水との反応により水素が発生
し、その後の圧力の上昇、炉心溶融の割合なども示し、燃料棒がボロボロにな
ったこと、原子炉内の燃料棒の多くが破損したと指摘した。

 今中氏は、プリチャチ市の住民は事故翌日の午後に避難したが、三〇�圏の
住民は五月三日から一〇日にかけて避難した。プリチャチ市も含めてウクライ
ナ側に九万一千人、白ロシア側に二万五千人の合計一一万六千人が避難した。
しかし、放射能の汚染は単純に距離では線引きできず、三〇〇kmはなれた地
域でも高濃度で汚染したとこもある。汚染は風や気象条件でも違い、遠く離れ
た地域でも高濃度で汚染されたのは雨が降ったためだ。チェルノブイリの事故
でほぼ北半球全体を汚染した。8千キロ離れた熊取の実験所でも事故一週間後
に検出された。今も被害は続いている、まだ、チェルノブイリは終っていない
、と報告を締めくくった。

 チェルノブイリの現地報告をウクライナ科学アカデミーの研究者がおこない
、国際プロジェクトとして建設が準備されている「第二石棺」について幅二五
七メートル、高さ一〇五メートル、長さ一五〇メートルの巨大なドーム型の構
造物が計画されているが、建設費は大幅に増え千億円に達するがG8やEUの
資金を受けて建設が準備されているとのべた。

 会場から「三〇�圏でも一六〇や一七〇マイクロシーベルトある。六時間ほ
どで年間基準を超えてしまう。三〇�圏の住民を早急に避難させるべきではな
いか」「制御棒が完全には挿入されていないのではないか」などの意見がでた

 海老沢氏が質問に答える形で「外部電源、冷却系の確立しかない。原子炉に
大量の水を入れなければ根本的な解決にはならない。再臨界の心配もしている
。燃料棒は二八〇〇度、制御棒は一五〇〇度でとける。今後もいたちごっごに
なると思う」とのべた。

 今中氏が「現地ではたくさんの知り合いがサンプリングなどで懸命にデータ
--を集めている。しかし、全然公表されていない。すべての情報を公開すべき
だ。いったいどうなっているのか」と訴えた。

 最後に小出氏が、科学者として全力をあげて発信していきたいとのべた。 
 

お世話になります。

昨日の話を回りにいる同僚に話した所、いろいろな意見がありまし たので、私だけでなく、神戸にいる震災経験者の方々にいろいろ尋 ねました。

しかしながら、震災からはや17年?が過ぎており、具体的な事が あまりなく、お役に立てるかどうかわかりませんし、今回の災害は 私たちが経験したものと異なっているとも考えられま す。その辺りをご理解の上、集めましたアイデアをご参照ください。


震災直後から1週間

→直後は被災地におられる方々全てが被災者であり、警察官、市役 所の職員なども含めて、ご自分の家族の無事を確認と救出に走るた め、被災者達は自分たちの力だけでなんとか窮地から脱 しなければ なりません。少なくとも3日間は自分たちで「生きていく」事を考 えなければなりません。3日を過ぎた辺りから、少し余裕が持てる人々が周囲の困った方々 への手助けに行く事ができます。1週間は近所の方々と協力しなが ら、生活できる環境を作っていかなければなりません。

物資や救助隊などは、被災地への道路が寸断されており、はっきり 言って期待できません。行こうにも道がないのですから。

1週間を過ぎた辺りから、徐々に各地からの援助、救急隊や自衛隊 などが被災地へ入り、本格的な救助活動が始まります。もちろん、 地震がおきた当初から何かしらの救援隊が一部の地域で あったかも しれませんが、それが全市、全地域とまではいきません。一般市民 への救援までは約1週間はかかります。


さて、ライフラインですが、電気が最初に復旧します。電線が地面 より上にあり、修理も比較的早い。比べて、都市ガスや上下水道の 復旧はなかなか進みません。特に上下水道は悪くする と1ヶ月かか るかもしれません。


アイデア

私たち阪神間の被災者は、このような環境の中で、身の回りにある ものを工夫して使って生活を送っていました。

1段ボール、新聞紙、発砲スチロールなどは暖をとるには最適な物 資です。スーパーなどで無料で配布しているものを利用されてはど うですか?

段ボールを布団の下に敷くと熱を奪われない。新聞紙をくちゃく ちゃにし、ゴミ袋にいれると、簡易の布団や枕になります。

2ウエットティッシュ、ポケットティッシュ、おむつ用ウエット ティッシュ

3生理用ナプキン(止血用に!)

4ラップ、アルミホイル

震災直後は水が一切使えないので、お皿などを洗わなくてもいい ようにラップやホイルで覆って使う。

5水を運ぶときは、バケツの中にポリ袋を入れ、その中に水を溜 め、口を縛ります。そうすれば、バケツから水が漏れません。

6ペット様室内トイレの砂。消臭剤も入っており、人間にも使えます。

7一方、「大」の方は、バケツの中に透けないゴミ袋を入れて用を たします。終わったら袋の口を縛って生ゴミと一緒に燃えるゴミと して処分。

8紙皿、紙コップ

9道路の溝のカバーとなっており網状の板(?)を調理に利用します。

コンロや電気が使えない間は、たき火で暖をとったり、ものを焼 いたりします。その際に、この編み目の板が大きなものを焼くのに 重宝します。(普通だったら役所の人に怒られます が)


購入すべきもの

1使い捨てのマスクと手袋あれば、消毒用アルコール

避難所や被災地の衛生状況はよくありません。

2風邪薬、下痢止め、外傷用塗り薬(マキロンのようなもの)、バ ンドエイド

3レトルト食品(カレーは暖めなくてもおいしく食べられます)

4粉ミルク:子供だけでなく、高齢者の方々への栄養補給用として も利用できます 5アメ、キャラメル:当分補給には欠かせません。関西では「アメ ちゃん」は必需品。

6水を使わないシャンプー

7ミネラルウォーター


あれば便利

1カセットコンロ、ガスボンベ

2懐中電気(2、3日で不要になります)

3ガソリン、灯油 しかし、現在手に入るのが困難です。


電気が使えるようになりましたら、

1電気炊飯ジャー:ご飯だけでなく、お湯を沸かしたり、おかずを 作ったりする事もでき、便利です。

2電気鍋、ホットプレート

3ペットボトル:45度から60度までのお湯を入れて、 湯たんぽとして使います。熱すぎると溶けますのでご注意。


とにかく、水の確保が大事。この話を周囲の人とすると必ず「水」 を手に入れるのが大変だったと言います。

お風呂も入れません。2週間は無理でしょう。

喉が渇くような食品も避けた方がいいです。非常食用に乾パンがあ りますが、ものすごく喉が渇きます。乾パンは避けて下さい。


あまり深刻にならなくてもいいもの

食料。道路が開放され、救援物資が届くようになると充分すぎる程 の食料が届きます。

私たちも、パンやお米などは充分に配給されました。

水も手に入ります。衣服も手に入ります。


最初の1週間をやり過ごせると後はなんとかなります。

日本を信じて、救助はそこまで来ています。

根拠のないうわさに惑わされないように。

あとは、春がそこまで来ていますが、まだまだ寒い日が続きます。 暖をとって体を冷やさないよう気をつけてください。

折角、ここまで生きて来れたのですから、体を壊して倒れてしまわ ないよう、ゆっくり体を休めて下さい。


最後に、地震や津波で亡くなられた方々のご冥福をお祈ります。そ して、被災者の皆様、阪神間の私たちもこうして生き抜いてきまし た。気を強くもって、助け合って頑張ってください。


神戸より愛をこめて


被災者の方々が大変な状況で苦しんでいる中、とても

複雑な心境なのですが、甲状腺疾患に苦しむ人々にとっては

大変重要なことなので、やはり投稿させていただきます。


神奈川県保険医協会の緊急談話によると、30万人の

人の命が危険にさらされています。


とはいえ、一般の人にはどうしようもないことです。

もし関係機関につなげる手段をお持ちの方がいらっしゃれば、

力を貸してください。私は私で、色々動いてみます。



*<神奈川県保険医協会の緊急談話のポイント>*

* *

*〇甲状腺機能低下症などの治療薬チラーヂンSは、国内供給*

* の98%を、あすか製薬のいわき市の「いわき工場」で製造。*

*〇今回の地震でこの工場の生産設備に被害が発生し、*

* 安定供給のメドがたたず。

*

*〇この医薬品の半減期は7~10日程度なので、早期に供給に*

* 関する代替措置をとらないかぎり、服用者30万人の国内の*

* 患者の命が確実に危険にさらされる。

*

*〇一刻も早く、チラーヂンSの海外からの緊急輸入と海外への*

* 支援要請が必要。*



【神奈川県保険医協会談話】

「チラーヂンSの緊急輸入・海外支援要請を緊急に」

http://www.hoken-i.co.jp/outline/h/post_16.html


【東洋経済online  11/03/16 | 19:43】

「深刻化し始めた医薬品供給。チラーヂン生産停止で甲状腺機能低下症患者60万人に深刻な影響も」

http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/c1f25c13bb3cabf9a45df3571eae7f2e/



いわき市議会山本健一です。小名浜港復旧。船による物流を期待したい。帰りの船には、自力で移動が難しい避難民を乗せて欲しい。船は自己完結。水、食、通信、衛生あり。このツイートをご覧の船舶関係者、実現してください。いわきの食、燃料、医療は危機的状態です。#iwaki 



いわきの人、餓死してしまいます。マスコミは、宮城とか岩手とか、自分達が行っても安全なとこしか報道していません。いわきは屋内退避になってから、食糧が届かない、給水もしてないという状況です。マスコミの報道も一切ありません。ガソリンもなくて、いわきから出ることもできません。
[ 引用元を表示 ]



至急、いわき市への支援、政府が強化して下さい。いわきに物資がきてません。放射能を避けてるのか私の地域の避難所には届かず、高校では凍死者が七人も出た。お願い支援を強化して! #j_j_helpme #311care 



わき市、北茨城の人命が危険! 放射能漏れを危惧して救援部隊が震災発生から全く来てない状況。このままでは餓死するとのこと。仲間が居る町なんだ!頼むから大至急助けて欲しい!!



【いわきの現状】今枝野さんが言ったけど、本当にいわきに物資がきてません。放射能を避けてるのかなんなのか知らないけど私の地域の避難所の高校では凍死者が七人も出た。お願いだから支援を強化してほしい。 



お願いだからいわきを...いわきを助けて!!!!!餓死者、凍死者が出ている模様!買い占めやめろ!誰か気づいて!お願い!たくさん拡散して!



今いわきにいる妹からメールがきました。みなさんどうか拡散お願いします!「今いわき市は放射能が危ないからって物資を運ぶ業者が引き返しちゃっていわき市に物資が全然来ません。だからいわき市が30キロに入ってるのはほんの一部なので危険ではないので物資を送ってください」本当にお願いします。



福島県いわき市の避難所である高校で、すでに凍死者が7人...だと... 放射能汚染地域で車両が入れず物資が届かないっておまえ マジなのか


と、Twitterからの情報です。
マスコミはまったくいわき市や北茨城の報道をしません・・・
だから真偽はわかりませんが、緊急のリツイートなので記事にしました。

いわき市、北茨城は現在非常に危険な状態のようです。

水や食糧がないため餓死した人、凍死した人もいるそうです。

他のブロガーさんやツイッターをやっている皆さん、呼びかけにどうかご協力ください。また新しい情報などあったらください。お願いします

手術室のことはなかなか外には見えないものがあります。今後の参考のため、当人の名前を秘匿するかたちで皆さんに紹介します。私が仙台に行くとありますが、仙台ではなく三陸海岸です。これは次のメールにて。


●●先生

 お久しぶりです。私は関連病院の一つである仙台●●病院●●外科に4月1日から勤務する予定です。地震当日も大胸筋皮弁の再建手術のため●●に出張手術に行って まさに手術室で被災しました。 建物はすごい揺れで崩れ落ちるかと思いました。必死で麻酔のかかった患者さんの頭をおさえあたりは真っ暗になり、モニター等全て電源が切れ、ちょうど手術が終わるところだったので、純酸素だけは入っているところで何とか手術が終わりました。

 ICUは非常電源で電気は回復していましたが、その横の廊下から水道管が破裂し嵐のように水が降ってきました。とりあえず、術衣を着替えて外来に行ってみるとてきぱきと病院スタッフは廊下に非常用のランプ型電灯を置き、仮設のベッドを作り、暗闇、水びだしのなか、みんなで手助けして薬の手配、食事の手配、人数の確認など、スタッフがてきぱき混乱せず働いておりました。その日のロビーは入院中の患者さんでいっぱいでした。私も少しでしたが参加させていただきました。その日は口腔外科外来で過ごし、翌日はまた病室に入院患者さんを部屋に戻したり、崩れた病院を掃除したりしました。もちろん、トイレは真っ暗、水流れず、電気も止まったまま。病院関係者もその方たちの家も大変なことになっているのにもかかわらずがんばって働いておりました。私の代わりに辞める先生の家は横浜が実家で一人暮らしの家とは言え、津波で流されてました。

私はその翌日街中を歩いてみました。コンビニは停電中、お客の長蛇の列。みんな騒がず落ち着いて買い物していました。物品は何もありませんでした。

 その近くにあった開店前のイトーヨーカドーを発見したので並びました。中はガラスが割れて危険とのことで少量の物品を一人1種類ずつで購入できることになっていました。イトーヨーカ堂も値段は普通、むしろ安いくらいの値段で販売しており、お客さんもみなさん騒がず長蛇の列を並んでおりました。泉区は信号も止まていますが、建物はそこまで破損はなく、みなさん落ち着いた様子でした。日帰り出張だったので何も用意しかしていないなか、新幹線も不通で長期の滞在を覚悟しました。しかし、千葉や神奈川、山形などから応援に来ていた救急車のなかで千葉に物品を取りに帰る救急車に乗せてもらい、最初の原発が爆発した数時間後にだれもいない上りの東北道をひた走り、土曜の夜中に東京駅に降り立ちました。宮城、とくに福島は東北道はうねり、ひび割れが多々あり、暗い中、つらかったです。被ばくの危険等、不安になりつつ、栃木に入った時にはホッとしました。おそらくその日に仙台から東京に戻ってきた方はほぼいないのではないかと思います。原発の問題もあり引っ越し業者も東北には行けないとのこと。仙台の病院にも連絡が取れずどうなるかはわかりません。家財道具をどうするか、トランクルームにも問い合わせているところです。いつも私は人事でごたごたして、自分自身も嫌になってしまうのですが... 。生活のこと、仕事のこといろいろ困惑しております。ただ、私はこのようなときになるべく4月1日に仙台に行って手助けを何かするべきではないのか口腔外科、歯科のことで病院でなにかできるのではないか。逆に迷惑になってしまうのか。いろんなことを考えながらこの数日過ごしております。

 先生は仙台に行かれるとのことで思わず返信してしまいました。先生が行かれる被災地はどのあたりでしょうか。またお話聞かせて頂けたらと思います。

 それでは失礼します


救援物資の輸送方法について防衛省・自衛隊からのお知らせがありましたので御参考までに。


〜地方公共団体及び民間からの救援物資の自衛隊による輸送スキームについて(平成23年3月16日)〜

http://www.mod.go.jp/j/press/news/2011/03/16a.html


平成23年3月16日


東北地方太平洋沖地震の被災地域への各種救援物資のより迅速・的確な輸送に資するため、次のような救援物資の輸送(受付)スキームを構築しましたのでお知らせします。


1.本スキームの概要


 救援物資の提供希望者(都道府県、市町村、民間(原則として個人を除く))は、所在都道府県にその旨(物資の種類、数量等)を連絡。

 都道府県は、自衛隊部隊(各都道府県別)(別紙)と調整の上、救援物資を持ち込んでいただく駐屯地・基地等を提供希望者に連絡。

 提供希望者は、指定された日時に、指定された駐屯地・基地等まで救援物資を持ち込み。

 救援物資の輸送については、ア)又はイ)により行う。

 ア)都道府県より輸送先の指定(何県)があるものについては、当該県に輸送。

 イ)都道府県より輸送先の指定がないものについては、自衛隊(災統合任務部隊(東北方面総監部))において、現地対策本部との調整や自衛隊の現地情報を踏まえ、輸送。


2.輸送対象救援物資


食料(生ものや賞味期限の短いものを除く。)、水、各種生活用品(ただし、ガスボンベなど輸送ができない物資があるため、詳細については、適宜、都道府県と調整。)


3.本スキームの周知方法


(1)都道府県に対しては、知事会より説明していただく。

(2)市町村及び住民に対しては、都道府県において広報していただく。


福島では、原子炉爆発により、

陸路、空路、救援物資がうけとれません。

かろうじて、まだ、県南で受け取れるので、緊急支援を各方面にお願いしています。


必要な物は、以下の通り

○イソジン(ヨウ素)

○懐中電灯

○乾電池

○カセットコンロ

○カセットボンベ

○ラジオ

○日持ちのする食糧

○おむつ

○生理用品

○消毒液



送り先

〒970-8026

いわき市平谷川瀬字西作1番地

いわき平競輪場

電話 0246-22-4136


なお、住民は、ガソリン、灯油、食糧がなく、自力で脱出することができません。

国、県、市の情報が、通っていないので、民間の知恵で、なんとかするしかありません。 

以上よろしくお願い致します。

東北、●●です。

皆様からのご支援のお申し出、ご声援、ありがとうございます。


いわきは、かろうじて電気がつきましたが、水、食糧のないまま、自宅退避。

放射能を浴びても、洗えません。

ガソリンもなく、逃げだせません。


今のところ、救援物資も受け取れません。


※以下、仙台からの報告です。


こちらはライフラインストップで難儀しています。津波の被害で復旧が遅れています。ガソリンも燃料も入手不可能です。

こちらは市内も渋滞で宅急便もガソリンがないので動いてません。死体安置も遅れています。行方不明の息子を探している夫婦に合いましたが言葉が出ませんでした。近くの石油タンクがまだ鎮火していません。私は自宅ですが避難所にいる方々は食料不足と疲労で大変のようです。お心遣い感謝します。●●

皆様


今回の震災に関しては、ML上でも多くの方々から、何か力になりたいとのご投稿があり、感銘を受けております。

政府においては、辻元清美議員がボランティア担当の総理補佐官に任命され、辻元補佐官の下、近日中に、「震災ボランティア連携室」を内閣官房に設置し、行政と民間の方々との間の一元的な情報共有の窓口を設ける動きとなっています。

こうした試みは初めてのものであり、今回の震災に際して、国民一人ひとりの力を結集し、オールジャパンで難局を乗り切ろうという決意のあらわれとも理解できるかと思います。


さしあたっては、政府において震災対応の中核となっている内閣府(防災担当)のホームページから、全社協の被災地支援・災害ボランティア情報へのリンクが貼ってあります。

http://www.bousai.go.jp/


全社協の情報は、タイムリーで信頼できるものとして推奨されているものです。現時点では、現地入りや、現地への物資の送付は控え、義援金等の形での支援に限るように勧められていますが、いずれ、体制が整った時点においては、より直接的な支援も展開されていくのではないかと思います。


とりあえず、ご参考にしていただければ幸いです。


●●●●

(内閣官房国家戦略室勤務。なお、上記は私の個人的な意見です。) 

今回は日本国民が一致団結して克服しなければならない災害であることは誰もがわかっていることと思います。現在のニーズは水・食料、そして医療です。そのニーズを正確に把握し、適切な支援を行い、その効果があったのかどうかをきちんとモニタリング・評価をしていく必要があります。


阪神大震災からの教訓は、行政、現地の医療機関、外部からの支援者、大学などの専門家などがばらばらに支援・活動したため、全体としての効率・効果がさがってしまったというものがあります。それを今回は初動から一体化して協力し合おうというもので、まずは医療系NGOと大学と行政が協力しあう体制を作ります。


JICAの国際緊急援助隊の中心メンバーが設立し、全国の医療機関の医師・看護師などが参加するHuMAというNGOをはじめ、いくつかのNGO、東京大学、仙台市などが連携しあいます。まずは議員の皆さんにそれらの活動の重要性を理解して頂き、その後、資金集めや人材集めなどにご協力願えればと思います。手始めに、私のスマトラ大地震・津波、阪神淡路大震災、ミャンマーサイクロン被害などの経験をスライドでお示しし、今回の災害支援に何が必要なのかを講演しても構いません。


目的:

1)亜急性期・慢性期における地震・津波被災者の保健医療、精神的トラウマに関するニーズを迅速に把握・分析し、適切な支援・ケアを提供する

2)災害による健康影響と介入の効果について、科学的な分析を行い、将来の災害対策・予防のためのエビデンスを発信する


方法: 行政と市民団体とアカデミアの協力体制を構築し、避難所で生活する被災者に対して医療チームと生活支援チームによるサービスを提供し、対策につながる情報収集、分析、フィードバックを行う


支援体制:1)サービス支援:HuMA(日本の大学病院、県立病院などの救急医、看護士などからなる救急医療専門NPO、JICAの国際緊急援助隊の医療チームの中心メンバーが設立)、他、いくつかのNGOと交渉中

2)研究支援: 東京大学国際保健政策学が中心となり、他の大学にも呼びかけ中。文部科学省、厚生省の研究費を申請予定。米国からもワシントン大学等の支援予定。

3)行政支援: 仙台市との連携予定。




岩手県庁はIncident Command Systemに基づいて、システマテックに県庁が動いてく

れて、また医療チームも100チーム以上参集していただいて、本当に感謝しておりま

す。




しかしながら濁流で、すべてをさらっていく津波災害の悲惨さと、そのため防ぎ得る

死の傷病者が少ないというストレスや、産婦人科や小児科を中心として医師が少な

く、沿岸の拠点病院の医師の疲労はピークに達しております。




ご家族が被災し死亡したときに、被災地域が事前に家族登録名簿を作成して確認する

ようにしていたので、まちごと流され、消防署も流され、指揮をとる町長も幹部も死

亡し、自分の家族や友人を亡くした状況であり、現場は対策を考える以前の状況で

す。




心のケアマニュアルをメールやインターネットで配布(DMATにはアップして閲覧可能

状態しましたが、、、)したいのですが、電話はおろか、衛星携帯電話や防災無線す

らつながらない状態です。




岩手は四国とほぼ同じ大きさといわれるぐらい大きく、見つかっていない孤立集落や

避難所がまだ多くあるようで、混乱を極め、もともと医療過疎のところで医療従事者

の疲労は恐ろしいほど増大しております。




混乱と情報の錯綜および、精神的な疲労を最大限理解し対応していきたいと思ってお

ります。




追伸:朝方、二階から飛び降り自殺を図った男性がいました。息子を今回の津波で亡

くされたそうです。心のケアの早期確認、早期介入の必要性を感じました。



今回の災害は大きすぎます。


派遣されてくる途中の航空機から見た光景には息を呑みました。


海沿いの地域が、津波にさらわれ、集落ごと消えてしまっているのです。


それも1カ所2カ所ではありません。


三陸海岸はほぼ全滅です。




いまだに誰も全貌が把握できていないと思います。


現地では、それ以外にも深刻な問題が山積していて、


なにから手を付けていいのかわからない状態です。




既に発災後3日過ぎていますが、いまだに孤立した地域が


数限りなくあるようですし、そもそもそういう地域が


どのくらいあるかもわかっていないようです。




これから少しずついろいろなことがわかってくるのでしょうが、


いったいどういうことになるのか、空恐ろしい気がしています。。




今活動しているのは、仙台郊外の自衛隊基地の片隅の診療所ですが、大型ヘリが到着するたびに、10人、20人と被災者の方が降りてきます。


ほとんどは命に別状ない方ですが、高齢者で、認知症があったりして、氏名さえもはっきりしない方もいらっしゃいます。


家族がいらっしゃるのか、いた場合無事なのか、連絡が取れるのか、全くわからない方も少なくありません。


この人たちは今後どうなっていくのだろうと思うと、気が遠くなります。


しかも、こうやってヘリで運ばれる被災者の方はまだ幸運で、


その数倍以上の方がまだ何の援助も受けていない可能性があります。




できることは限られていますが、できるだけのことをやって帰ろうと思います。


これから、全国規模の支援が必要になるかと思います。



また情報を流します。



被災地からの声

皆様

 家族を三陸沿岸に残し単身赴任をしている●●●●です。この週末,家族の捜索のため東京から軽自動車を運転し21時間ノンストップで現地に入りました。


 小学生の子供2人を含め家族は地元大槌町で津波の被害に会いました。幸い避難できましたが、家屋は跡形もなくなりました。避難所が一杯で食糧、水、燃料が不足しています。手洗いも出来ず、いつ伝染病が発生してもおかしくない状態です。当然着替えはありません。また,避難所か10箇所以上に分かれ山間部にあり,携帯もつながらないため安否の確認が思うようにできていません。


 以下は,子供が話した津波の様子です。「授業中に地震にあい,縦横に大きく揺れた。校庭に集合し避難所のある高台に向かっている最中に津波が襲ってきた。移動してから10分後だった。海が渦を巻いて川をさかのぼってきた。川の堤防から,たこ焼きのプレートからあるれるように水が押し流されてきた。2,3回繰り返して,最後に大きな波が来た。直ぐに,コンビニに火がついた。火がどんどん燃え広がり,車が浮かんで火が燃え移ると爆発が始まった。床が木でできている音楽室が燃えていた。学校は4階まで燃え広がった。」


 学校の先生たちは、避難所の子供達の親かわりとなって、世話をするだけでなく、炊き出し、トイレ掃除、病人の介護等をしています。かなりの負担であり、いつ倒れてもおかしくない状態です。先生の多くは、まだ家族と会うことが出来ていません。


 また、街の中心部はがれきとへドロで埋まり、街は跡形もありません。学校、病院、役場等重要施設が機能しない状態です。大槌町に限らず三陸沿岸地域が甚大な被害を受け、沿岸各市町村の復旧は当面難しいでしょう。


 4月から新学期が始まりますが、いつ再開出来るのか全くわかりません。沿岸部はリアス式で海と山が近く、平地が限られています。仮設住宅や仮説の学校を建設するための平地は現地には少ないのです。また、津波の被害の少ない近隣の市町村に移動するためには標高600m以上の峠を超え車で1時間以上かけなくてはいけません。県庁所在地の盛岡と沿岸部は,峠を2,3越えなければならず,車で2時間以上かかり,被害の重大さが思うように伝わっていかないのも事実です。


 一刻も早い復興を願っています。しかし、人口が少ない上に子供とお年寄りが多く自力での復興には相当の時間がかかるでしょう。被害の少ない内陸部の市町村が被災者の受け入れを表明していますが、移動手段がなく新しい土地で生活するための資金もなく外に出る避難者は少ないようです。


 先生たちの負担軽減と,子供たちの学習環境を一刻も早く改善出来ればと強く願っています。


以下は,本日のニューヨーク・タイムズの大槌町の記事です。

from NY Times article today"

"In the town of Otsuchi in Iwate prefecture, 12,000 out of a population of 15,000 have disappeared.

"After my long career in the Red Cross where I have seen many disasters and catastrophes, this is the worst I have ever seen. Otsuchi reminds me of Osaka and Tokyo after the Second World War when everything was destroyed and flattened," Japan Red Cross President Tadateru Konoe told Reuters during a visit to the coastal town.

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