神戸市長選挙の投票分析をして、相手陣営からは批判を受けましたが、大学院で教員もさせて頂いている私は、また、分析をし、もの凄い事実がわかりました。市長選挙の最後は「くじ、抽選」により当選者が決まったと言えそうなのです。
私が尊敬する当選された久元新市長は、総務省の中でも運が強い人で通っており、激戦の中、私は市長に自身の強運を信じて頑張ってくださいと言ってきましたが、まさか、本当に最後はくじで当選したとも言えるとは。もちろん、運も力の内ですが。
さて、理由を説明致します。今回の選挙では、久元候補に対する嫌がらせのように、久本という方が立候補します。ポスターも貼らず、市内で一度も演説もすることもなく、完全に嫌がらせであったと言えます。結果、多くの市民が間違い、久本候補は、26548票も獲得します。普通、こういった泡沫候補ではありえない得票数。あきらかに、久元との勘違いです。この票が久元新市長に入っていたら、久元新市長は余裕をもって当選できたでしょう。しかしながら、こうしたこともあり、結果は、五千数百票差での僅差での勝利です。
では、私は、いったいどれぐらいの方が、間違われたのか分析することにしました。久元と書いた人に対して、久本と書いた人の割合は、区ごとに見て行くと、9%(長田区、須磨区)から26%(垂水区)まで開きがあります。なんと垂水区では10人に2.6人が間違っています。
さて、ではこの差はどういうことなのでしょう。ここがミソです。投票所に来た人は、投票用紙に名前を書く時に、前に貼られた名前を見ます。普通は右から見ます。垂水区は右から一番、始めにでてくるのは久本候補。そして、久元新市長は左端。つまり、右から見て久本とあると、これだと思い込んで書いてしまうのです。そして、この名前の順番が、区ごとに、くじ、抽選で決まるのです。
幸いなことに、久元新市長は、右から最初に出てくる方が多く、後ろであった垂水区、灘区以外は間違う人が少なかったです。もし、このくじ、抽選で、久本候補が前に書かれている区が多ければ、明らかに五千数百を超える久本と書いてしまう人が出てしまったことがデーターからわかります。特に、人口の多い西区などで、悪い位置に久元新市長の名前が書かれていたら、いたたまれない残念な結果が想定されました。
でも、やはり、最後は、人生「運」。強い運で、生きてきた久元新市長に未来を託して良かったです。また、強い「運」で神戸を良くしてくださることでしょう。また、次に選挙からは、名前だけでなく、写真も入れるなど選挙管理委員会も対策を講じて頂きたいものです。神戸の未来を左右する抽選でした。相手候補陣営で、くじ、抽選に行かれた方、また、傷口に塩をぬるような書き込みをしてしまいすみません。本当によく頑張られました。運が悪かったのです。
私が始めて義烏のことを知ったのが、今から6年前の1995年のことです。学生時代に起業し、20年間に渡って、ビジネスの情報を求め続けてきた私に、ある日、世界最大の日用雑貨卸売市場「義烏」への体験旅行の案内がきました。私は、直感的に感じるものがあり、この団体旅行に参加します。
私の直感どおり、始めて福田市場に着いた時、「義烏」には、強く心を震い立たせるものがありました。日本人の感覚では考えられない巨大さ。また、市場の中にある熱気や躍動。そして、驚くべき価格。残念ながら、この団体旅行の滞在時間は短く、さっそく、翌週、義烏に来ることにしました。
そこから私の「義烏」への訪問の繰り返しが始まります。この6年間で、数十回の訪問をしています。また、日本においても、様々な手段で、「義烏」のことを紹介し、多くの日本人も「義烏」に連れてきました。また、「義烏」の方々が日本に来られる時には、多くの案内もさせて頂いてきました。
その中で、特に、「義烏」の人々を尊敬することが、義烏の精神、「正義」、「勇敢」、「誠実」、「勤勉」、「寛容」、「開放」の表れです。古くは、「鶏毛換糖」でしょうが、温家宝首相が言われるように、「義烏」は、まさに、「開拓」、「創新」、「堅実」、「苦労」、「活力」の模範都市であり、「義烏」の人々、すなわち、「人民」、「企業」、「政府」の三者が一丸となって、「義烏」の街を繁栄させています。
私は、「義烏」の人々の「挑戦心」や「努力」の中で、特に、政府指導者の偉大さに注目しています。国の開放政策が始まる前の1982年に「義烏市1号通告」をいち早く発布し、今の原型となる市場を開設し、「興商建市」のもと、大きく街を発展させ、さらに、「引商商工」のもと、今の「義烏」を築いてきた政府の指導力は特筆すべき点だと考えています。
こうして、この約30年間で驚くべき発展を遂げた「義烏」ではありますが、今、新たな転換点を迎えていると考えています。世界では、安さや品数だけで商品が売れる時代は終焉しようとしています。いかに、「品質」「デザイン」「サービス」などの「付加価値」、しいては、「豊かな生活提案」を行っていけるかが鍵です。世界で信頼される「義烏ブランド」を構築することが大切です。そして、ビジネスの成功の秘訣は継続です。
そのためには、「政府」が、ビジョンを掲げ、さらに強く、「企業」や「人民」を指導していくことが必要だと私は考えています。「情報網」や「交通手段」の発達により、世界は、さらに近くなろうとしています。これからの「義烏」の「都市創造戦略」により、「義烏」は、まさに「世界の商品の交流拠点(ハブ)」になりえる可能性があり、世界的な都市発展の象徴となりえると私は考えています。
私も、微力ながら「義烏」を愛する外国人として、「義烏」のさらなる発展に貢献できたらと考えています。「義烏」の皆さん、どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。
一般社団法人日本義烏友好協会 理事長 松村 勉
http://www.aio-inc.com
]]>「ともに生きる」を掲げて
震災復興における社会包摂型アーツ・マネジメント
志賀野桂一
1、 震災復興の基本視座
今回の東日本大震災における惨状はあたかもアニッシュ・カプーア (Anish Kapoor)の作品に見られるどこまでも果てしのない闇が拡がる光景である。瓦礫の山は、やがて強烈な臭気と見えないセシウムの恐怖さえも運んでくる。自動車や船が津波でビルの上に乗った超現実的な景色はかつてアーティストがみた夢の作品にも見える。この反芸術的事象を前に私達は呆然と立ち尽くすのみである。地球の巨大なエネルギーに恐怖と畏敬と絶望を同時に感じさせる。
芸術家やアートマネジャーを自認する人々の役割はどこにあるのであろうか。いうまでもなく震災復興は、人間性の回復や地域文化の再生なしに復興はない。しかし痛み傷ついた人々の精神の復興は、「心の癒し」などというフレーズで括れるほど軽くはないのだ。
レベッカ・ソルニットは『災害ユートピア』で大災害が起きた当初には特別な共同体、互助の感情が湧き起こる世界の事象を報告している。東北の避難所でもこうした光景がみられ、秩序だった姿が世界にも配信され感動を呼んだ。しかし、表だって暴動や不満の爆発がなったとはいえ、長期化する避難所暮らしは、将来の不安を含めマイナス感情を沈殿させていく。窃盗も多発している。人に言えない性犯罪さえあるのだ。今後、仮設住居で孤独化の問題も迫っているのである。これら被災者の抱える心理的ダメージ、多様な精神的課題に対して、文化芸術は何ができるのか。心理的なケアも重要となるが、本来的には病人としてではなく、人間としての自然な自己治癒力を高め、自立の道筋をたどるのが望ましい。芸術や文化の果たすべき役割はここにある。
芸術家は、平時にあっても精神の浄化や苦悩の昇華といった作用を人々にもたらすことを自らの業としてきた。震災で傷んだ地域の回復は、被災地の人間性の回復なくして達成できないと考える。多くのアートNPO、文化団体の支援活動が動き出している。こうした活動に支えられ地元の住民が生き生きと自己表現ができる日常を取り戻すこと、とりわけ祭をはじめとする地域文化の復興が欠かせない。私は震災復興には、人々の生存条件のみならず地域の誇りを取り戻す人間性回復という基本視座が重要と考えるのである。
2、 文化面の被災実態
今回の震災と津波によって被害を受けたのは①沿岸部に立地した歴史博物館のまちの古文書や、自然史系博物館の収集物など貴重な文化財が流失または大量の水によって破壊された。また、②公共ホール、民間・大学ホールは地震によって天井が落ちるなど大きな損傷を受け、閉館の状態となっている。劇場など吊り機構が複雑なホールほどダメージは大きく、再開のめどが立たないホールが相当数に上る。このことにより予定されていた各種催事が中止または延期になった。③学校の津波による被害が甚大で、楽器なども流され子供たちの教育文化活動が損なわれている。④まちの民俗的財産である祭の山車や太鼓などの被害が出ており多くの祭りの再開が危ぶまれている。
こうした目に見える被災に対して根深い問題が派生している。ひとつには瓦礫化した街である。これは、外の目線では膨大なごみの山としか写らないかもしれないが、住民にとってはまだ見つからない不明者の埋まっている聖地であり、個人の持ち物や思い出や記憶の品々といった宝の集積物である。喪失したまちの記憶の被害は数値にカウントできない。また、多くの公共文化施設が避難所に転用され、本来的な公演や活動の場が使用不能となっている。さらに原発事故により来日アーティストのキャンセルが続くなど、興業系の公演の中止または延期が余儀なくされ、エンタテイメント業界に脅威を与えている。日本全体における自粛ムードや現実に使えない多くのホール閉鎖によって、舞台芸術系のアーティストや舞台技術者の半失業状態を招いているのである。
3、 元気な草の根レベルの復興支援活動
復興に向けた文化芸術系ボランティアは、震災直後から活発に動き始められた。その中で私が取材した活動をいくつか紹介すると、まず仙台市の声楽家の松尾 英章らが進めている活動①アートインクルージョン(@ARTinclusion)という 活動で、年齢、性別、国籍、障害のあるなし、美術の基礎知識やスキルなど関係なく誰もが自由に参加できるバリアフリーのアートプロジェクトに取り組んでおり、2011年4月2日~6月26日までの毎週土日、仙台市中心部で「大震災復興支援チャリティコンサート」をいち早く開催している。
仙台で活動する演劇人は、「せんだい演劇工房10-BOX」(八巻寿文工房長)という仙台市がつくった公益法人の管理する演劇センターに人や情報が集まっており、ここに集まる演劇関係者を中心に市内のSENDAI座(小ホール)と連携して②Art Revival Connection
TOHOKU(アートリバイバルコネクション東北)略称ARCT「あるくと」を立ち上げた。代表は桶渡浩治(俳優)。被災地において演劇のスキルを生かした絵本の読み聞かせや、ダンサーによるストレッチ体操などの活動を行うほか、被災地に絵本を届ける活動の③「子どもとあゆむネットワーク」、米国サンディエゴで活動する仙台市出身の演出家木村やこの働きでフェイストゥーフェイスの支援を行う④クリエイティブ・アクションリンク(CAN)などの活動連携と調整機能も果たしている。
仙台のアトリエ自遊学校を主催する新田新一郎は⑤「子どもの笑顔元気プロジェクト」を開始、被災地の子どもたちにコンサートを届ける活動を行っている復興のためのメッセージソング「明けない夜はないから」4月にユーチューブにアップしたところ一月で5,500のアクセスがあったという。水の恐怖から風呂に入れない子が、新田の人形劇を見て笑い転げお風呂に入れるようになるという泣かせる話も聴いた。
宮城県南三陸町では、プロデューサーの吉川由美の仕掛けたアート事業⑥「きりこプロジェクト」が行われた。「きりこ」は神主が紙を切って作る縁起物のことで、これを使ってまちの記憶をもとに作った「きりこ」を飾った。
岩手県では坂田裕一(盛岡公民館長)が中心となって⑦「いわて文化支援ネットワーク」がNPO法人「いわてアートサポートセンター」内に開設された。 盛岡の音楽家を中心に合奏団を組織し、県北に派遣する予定。また陸前高田市は壊滅的な被害を受けたまちだが、⑧「全国太鼓フェスティバル」でも知られる。中心となる菅野健一さん、23年前の平成元年から始まった祭であるが、今では全国の太鼓マンがあこがれる太鼓の甲子園となってきた。このフェスのもととなったのは900年以上の歴史と伝統を誇る、「けんか七夕」で、その勇壮な山車太鼓をもとにしたお祭りなのである。高田の人々の心臓の鼓動とともに根付いている太鼓の復活、まちの常在文化を復興することは急務である。多くの太鼓が津波で流される窮状に呼応したスイス在住のフグラー美和子は、急遽太鼓の寄贈を行うこととなった。これらの後方支援を先の支援ネットワークが行っている。
⑨八戸市では、港の水産会社が大きな被災を受けたが、その水産加工会社「ダイマル」の復旧・復興の姿をドキュメンタリー映画で記録しようとする島守央子(京都造形芸術大学4年)の話を聞いた。彼女は八戸出身で、父の島守康友(62歳)が経営する水産加工会社の被災に遭遇し、これまで考えていたドラマ映画制作を止め、会社再建の姿を記録するドキュメンタリ―映画を制作することで八戸市に恩返しする決意をする。ダイマルはこの地では誰もが知っている高級しめサバ加工で知られる会社である。パートの職員が自主的に集まり、黙々と泥出しをしている姿、「会社が自分たちの家」と言い切る従業員、「働くとは何か?」彼女の会社観・仕事観を変える行為を目撃することによってこの映画制作が始まった。22歳の等身台の大学生が、過酷な現実に向き合い、父の苦悩や真摯に働く人々の姿に直面し、「一人では生きていけない」という当たり前の事に気づかされながらカメラを回している、撮影時間は、現在6時間を越え年末まで撮り続け2月完成と聞く。「八戸ポータルミュージアムはっち」では、震災復興の特別企画でこの映画の上映の検討に入った。
韓国の写真家イ・ビョンヨンと東北大学に来ている留学生ソン・チス、指導する片岡龍(東北大学大学院文学研究科)のもとで、⑩「地球はひとつ」という写真小冊子を発行している。ここには、被災地に自転車で訪ね歩き、それぞれの避難所に寝起きを共にすることでしか感じ取ることのできない世界を1万5千枚の写真から選び出しキャプションを付けている。
その一節から「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
震災による地殻変動は、錆びつきかけていた人間社会のくさびを大きく揺さぶりました。
古いカラを破って、新たな芽が生まれ始めています。
こんなにも人に逢いたいと祈ったことはありませんでした。
こんなにものを考え、心を動かしたことはありませんでした。
こんなに知らない者たちが身をよせ合ったこともありませんでした。
人どうし、村どうし、町どうし、国どうしの垣根を越えて、
こどもたちが大人になるまで、わたしたちはヒューマンライン
(人間のきずな)をもう一度結びつけていきたいと願っています。」(地球はひとつVol1.多賀城総合体育館避難所)
イ・ビョンヨンさんの話を聞くと朝鮮戦争の生き残りの人々の写真を撮ることをライフワークにしていたが片岡の招きで来日し、この震災に憑つかれた様に撮り始めた。彼の視点は、被災者の心に寄り添いつつ戦場の遺品を拾い集めたかのような写真で、見る者に敬虔な思いを抱かせる作品群となっている。
このことに感激したNPO法人の専務理事川村巌は早速動き出し、⑪今年「祈りを紡ぐー書と韓国写真家のコラボレーション+チェンソーアート展」(2011年10月24~25日)を企画せんだいメディアテークで行うこととなった。これは今後東北三陸を中心としたアート・トリエンナーレ開催に向けたキックオフの催事でもある。
さらに今回、アーティスト支援組織「アーツエイド東北」が発足した。これは阪神淡路大震災の際、文化芸術支援で知られる神戸の島田誠の来訪をきっかけに機運が高まり、43名の発起人により2011年6月22日にせんだいメディアテークで発足したものだ。任意団体で発足し、近いうちに一般財団法人そして公益法人を目指すことになっている。①震災の広域性に照らし東北目線で支援活動を行う、②支援対象は、被災したアーティストと震災復興の文化活動支援という2つ、③民間ベースで、即応性のある中間支援組織を目指すというものである。これは私も代表発起人の一人として名を連ね、大学、経済、文化団体、有識者などアーティストだけではない広範な共感を呼んでいる。支援方法は今のところ未定だが、できるだけ顔の見える関係での文化芸術支援が求められていると考える。チャリティ型・慈善型の支援・助成からマッチング・グラント型の支援、あるいはファンドと発展形も議論されており、こうした民間組織が我が国で多数の公的助成財団のあり方を進化させることに結び付く可能性も期待できる。いずれにしても地域の主体性、アーティストと支援者との互酬性の関係は大切にしたいところである。
4、
東北の文化基層と共同体の復興
「東北の大地には、豊かな詩や小説、そして哲学が埋もれている。東北はむしろ、一遍の詩であり、小説であり、哲学そのものであるかもしれない、しかし、その多くはあくまで寡黙であり、すがすがしくも禁欲的である」(『東北知の鉱脈』)と赤坂憲雄氏が述べているように、東北に存在するまたは埋もれた常在文化は実に数多い。東北弁の多様さや様々な祭り、えんぶり、田植え踊り、お神楽、剣舞、鹿踊り、七つ舞、虎舞など豊な芸能の存在はそれを証明するものであろう。コンテンポラリーダンスのひとつに数えられる北方舞踏は、大地との融合した下半身の所作など農耕という日常生活の中から生まれたアートというしかない。これらはすべて生活や仕事(産業)と一体化した中で熟成されてきた。また、わらび座の茶谷十六は三陸の芸能研究と地域の歴史を研究していることで知られるが、氏によると農民一揆の分布と神楽などの芸能分布が見事に一致するという。これは祭りで育まれた組織性や計画性、行動全体を貫く高い見識や思想が一揆と言う政治行動を支えた歴史的証拠であろう。背景として、東北は数多い自然災害に対応してきた歴史がある。特に海は災厄と豊穣の源であり、鎮魂が祭りの基調となっている。しかしこの言葉にこめられる意味は、魂を清め鎮めるというだけではない。鎮魂(たまふり)というように魂を奮い立たせる荒々しさを備えた言葉である。海のシンボルで知られる竜神の玉はこの魂の「たま」である。幾多の伝説物語も海の豊穣と災厄に彩られている。それゆえに祈りと信仰が強く残ってきた。神楽で三陸沿岸に伝わる2つの廻り神楽がある。下閉伊郡普代村の鵜鳥(うねどり)神楽と、宮古市の黒森神楽である。
岩手県では早池峰神楽(法印神楽)があまりにも有名であり、私も橋本裕之(盛岡大学教授)に出会わなければ廻り神楽の存在は知らなかった。橋本によれば、「ほかの法印神楽と比べることが出来ないほど三陸の光輝く、とび抜けた技量を備えたプロ集団」(橋本)だという。これはスポーツに例えれば大リーグ級、トップアスリート集団ということになるのだ。毎年北と南廻りの交代で巡業し、村々で祝福を与えていく。村の若者もリクルートして集団に入れる、村の女性との恋愛も含めその武勇伝は村人の憧れとなる。しかし、この神集団が今回の津波で壊滅した。東北の芸能のプロ集団といってもほとんどすべてが兼業の芸術家である。共同体の復興なくしてこうした芸能の復活もない。
宮沢賢治の農民芸術慨論の一節には、「職業芸術家は一度亡びねばならぬ、誰人もみな芸術家たる感受をなせ、個性の優れる方面において各々止むなき表現をなせ、然もめいめいその時々の芸術家である・・」とある。19世紀後半英国で起こったウイリアム・モリスのアーツ&クラフト運動とも一脈通じる世界観である。生活と芸術の境界を越えた芸術論の有効性が浮かびあがってくるのである。ちなみに地方のアーティストの存在様式はほとんどが兼業といってもよい。それをマイナスに考えるのではなく芸術の生活の統合(オールタナティブ)として前向きにとらえたい。鶴見俊輔のいう限界芸術という言い方も出来よう。
今回トピックとして「東北六魂祭」という東北を代表する6つの祭り(青森ねぶた祭、秋田竿燈まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、仙台七夕まつり、福島わらじまつり)が一堂に会し、7月16~17日の2日間にわたり復興への狼煙を上げる祭りの開催が決まった。静の祭り仙台七夕の地に忽然と「赤い馬(震災の象徴)を鎮める伊達政宗」という<ねぶた>がこの6魂祭のためにつくられた。ちなみに昨年度の東北の夏祭りの人出数(平成22年度)は以下の通りである。
①
青森ねぶた祭り・・・320.0万人
②
秋田竿燈まつり・・・135.0万人
③
盛岡さんさ踊り・・・135.2万人
④
山形花笠まつり・・・100.0万人
⑤
仙台七夕まつり・・・235.7万人
⑥
福島わらじまつり・・28.0万人
2日間で、東北を代表する祭り(950万人を動員)が集結する。
今回の祭りの文字・ロゴは「巴(ともえ)」(*ロゴマーク)をモチーフに盛岡在住の12歳の書道家高橋卓也君が創った。仙台商工会議所の間庭洋専務理事は「まだまだ続く試練を乗り越えるためにも東北の誇り高い魂をこうした祭りの連携によって奮い立たせることが大切」という。
東北の夏祭りに共通しているのは、<七夕>である。ここで全国各地に伝承され行われている七夕の由来は、①祓いや籠り、②収穫の祈願、③中国から伝わる乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や星会いの祭り④佛教の盂蘭盆会(お盆)つまり祖霊祭、大きくはこの4つの要素が習合したものとされている。とくに仙台七夕や、竿燈祭り、ねぶた祭りに共通するのは、①②④で、竿燈の提灯には七夕の文字が刻まれ、ねぶたも農作業の「眠さを払う」「眠り流し」から「ねぶた」や、「ねぷた」が由来するとも言われている。いずれも農作業や機織りといった労働と深く結びついた祈りの祭りといえる。
東北には、古代より奥州征伐や戊辰戦争など痛めつけられてきた敗北の歴史観が根強い。東北に伝わる祭りはそうした負の遺産を払しょくするまさに祓(はらい)のエネルギーを秘めているのである。
5、 社会包摂型アーツ・マネジメントと地域に寄り添う支援
避難所では様々な芸能人やスポーツ選手が励ましの訪問がありニュースを賑わせている。避難所の被災者にとって元気づけられる効果は大きい。今後考えていかなければならないのは長期にわたる被災者支援のあり方である。災害復興の研究で知られる室崎益輝氏は、「被災者に寄り添い何をしてあげられなくとも一緒に海を眺める支援があってもよい」と述べている。
『災害社会学入門』(大矢根淳)では、支援者と被災者との関係性の中でラポール(信頼関係)が重要と指摘されている。つまり支援の受け手と送り手との関係で、受け手が常に劣位の関係性の中でしか感情表現できないとすれば被災者の不幸は解消されない(「贈与のパラドックス」)のである。地元に密着した信頼関係を築きながら行われる支援とそうした丁寧な支援の姿勢が大切である。
今回の震災に対して思うことは、自然条件の多様さと被災状況の個別性で、さらに原発事故は見えない放射能という新たな課題が加わって、震災復興に向けた対応はより複雑化している。
文化芸術によるまちづくりを日頃より研究している私の立場からも、アーツ・マネジメントの再構築を迫られた思いである。結論からいえば、「社会包摂(注*)型アーツ・マネジメント」が必要という点である。芸術と享受者との関係で原点に立ち帰ったマネジメントとポリシーが求められている。
かつてレ・ヴィ・ストロースが人間のつながりを、物と情報(言語)と女の交換という3つの要素で説明したが、アートを媒介とした交換行為をともするとお金にだけ置き換えてしまいがちな現代社会、今回の震災をきっかけに、善意や感激や涙や勇気といった様々な心の交換を目の当たりにしてきた。アーツ・マネジメントは、金銭交換という市場原理で割り切れないから面白いのではないかとさえ思える。
また芸術行為(作品)と享受者(聴衆・観客)とは本来1対1の関係性で成立している。わかりやすい事例を上げると、ヴァイオリニスト千住真理子の場合、彼女は天才ヴァイオリニストといわれながら10代後半で挫折する。復活のきっかけは、ひとりのホスピスの患者さんに請われバッハを弾いて聴かせることであった。1対1の演奏が彼女にとって本当の音楽の出会いとなり、復活したという物語である。演奏で慰められる被災者に対して、多くのアーティストが被災地の人に聴いてもらうことで逆に勇気づけられてくる。どんな大ホールでの演奏も一人を感動させられなければ多くの聴衆には届かないことに気づく、被災地での演奏会は芸術行為の原点を感じさせてくれる場なのかもしれない。
芸術の送り手と受け手は互いに芸術行為を通じてお金以外に大切な何かを交換している。経済優先の枠組みで演奏会をアレンジするマネジメントから双方向の人間の行為としての芸術と交感が起こる場面を数多く創りだすマネジメントに切り替えることが求められているのである。
今回の震災で、再び宮澤賢治のヴィジョンに戻るが、結論として「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」、これを賢治の夢としてかたづけるのではなく少しでも現実として考えたい。農民芸術慨論には「われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である」と書かれている。
賢治のヴィジョンはいま被災地の東北に生き続けている。
注*社会包摂・・・佐々木雅幸氏は『創造都市と社会包摂』(佐々木 雅幸:編著, 水内 俊雄:編著発行:水曜社)において、「社会包摂」とは「社会的排除を生みだす諸要因を取り除き、人々の社会参加を進め、他の人々との相互的な関係を回復あるいは形成すること」を指し社会的排除の対立概念であり、90年代後半よりEUにおける都市再生の目標の一つにも掲げられてきたものである。「創造都市」も「社会包摂」も、新自由主義的改革による「福祉国家」の解体を乗り越えて、新しい分権的な福祉社会をめざす共通の土壌の上に位置する社会改革の試みである、と定義づけている。
三角構造のアーツ・マネジメント
東北でボランティアを務める友人よりSOS
要望書をお送りいたします。お電話でもお話ししましたように、
福島市、二本松市、郡山市など空間線量の高い地域からの避難者が、
続々と米沢に避難に来つつあります。
米沢市内では、2DK、2LDKのアパートはもうないとのことです。
これから夏休みにかけてどんどん増えてくる気配です。
生活支援物資もまた必要になってくると思われます。
市や社会福祉協議会も動きがないものですから、
私たちが窓口になって物資の受け付け、配布をやっています。
避難してくる皆さんの、特に小さなお子さんをお持ちの母親の心配は、私たちの想像以上のものがあります。この地域の人たちは、「避難指定」区域ではないので、「自主避難」となり、生活支援が受けることができません。各方面への働きかけをよろしくお願いいたします。
福島県自主避難者に対する安全保障についての要望書
現在、空間線量の比較的高い地域、福島市、伊達市、二本松市、郡山市などにお住まいで、小さなお子さんのいらっしゃるご家庭の親御さんは、健康被害に対する不安を抱えています。子どもが学校でも外で遊べない、家に帰っても窓は閉め切り、親と子のストレスがたまり、熱中症などの危険性もあります。
これらの地域に比較的近い、山形県米沢市は5月には約1,000名の県外避難者がいましたが、6月末には約2,100名に増えています。その大半は避難区域外の「自主避難者」です。福島県に近い都会として、何かあったときに帰れる距離が避難者の安心につながっています。
現在、「自主避難者」に対し山形県は借り上げ住宅の家賃補助をとっており、多くの避難者を受け入れています。しかし、父親は福島県に仕事があり、家族が離ればなれの二重生活を余儀なくされて、経済的な負担も多く、精神的な負担も続き、いつ「普通の暮らし」が取り戻せるのでしょうか。
そこで、一人の国民として、下記の要望をいたします。何卒、政府として子どもたちの「いのち」を守るための権力の行使、「いのち」と「お金」をはかりにかけることなく、一刻も早い対応をお願いするばかりです。よろしくお願いいたします。 記
1)避難地域を福島第一原発からの距離と空間線量を基準にとらえるのではなく、将来の健康被害を重視して、小さなお子さん(特に未就学児童)とその親御さんを優先的に「避難優先者」と位置づけ、生活支援をしていただきたい。
2) 特に、子どもの夏休み期間だけでも安心して過ごせる避難場所(ペンション、旅館、ホテルなど)を避難者に無料で使用できるようにお願いしたいと思います。
以上
]]>という話をお聞きになっていると思います。
20〜30kmの自主避難地域に物資を届けている活動がありますので、
支援してください。
この活動をしている福島の●●さんと電話でお話をしました。
・自主避難地域(20〜30km)圏内には食料など物資が届いていない
仕分けする人も足りないし、運ぶ人がいない。
〜特に、南相馬市はたいへん
・飯館村の避難者も家に戻りつつある。
(放射能汚染はあるが、避難生活には金もかかるし長期化するから、
自宅のほうがましと考えてる)
が、しかし、店はみんな閉まっているので、食料などが手に入りにくい。
また南相馬ボランティアセンターとも話をしました。
・高齢者の物資届け、食糧配給、安否確認に手が回らない。
・一時閉じていたボランティアセンターを再開した
・来てくれるボランティアは10人程度で、まだまだ人手が欲しい。
(ちなみに、北にある相馬市は100人レベルのボランティアが訪れ、
ニーズも物資供給から、津波被災地の後片付けに変わってきてます。)
共感されましたら、以下の案内先に物資を送ってください。
皆さまのご協力に感謝しております。
]]>今の神戸の若い人たちは、神戸市が株式会社神戸と言われた時代があったことを知っているだろうか。この話をする時に、必ず、語らなければならない人がいる。宮崎辰雄元神戸市長である。氏の人生そのものが、株式会社神戸そのものであった。氏は、多感な高校時代から学生運動に紛争し、立命館大学に入ってからも、持ち前の正義感で学生運動を続ける。
不快に思われる方がいらっしゃったら申し訳ありません。
20日に、山形県天童市に飛び、全国のからの支援物資の仕分けと整理作業に参加しました。
多くの方がおっしゃっているように、支援物資を送る際にはいろいろなものを詰め込まず、一種類のものを同じ箱に入れ、内容物を箱に明記して送っていただくと仕分けがずいぶん楽になります。
また賞味期限切れの食材や、ずいぶん汚れた衣類・寝具なども時折混ざっており、そうしたものはボランティアが随時発見し、廃棄処分にしています。
昨日からは、宮城県登米市に移動し、ここから各避難所に物資を届けるボランティアをしています。
カバーエリアは気仙沼・南三陸町・女川町です。
行政の手が行き届かない小さな自主避難所を主な支援対象にしています。
いま僕が所属しているのは日本エコツーリズムセンターですが、これに加え全国の環境教育・自然学校・アウトドア教育の関係者で災害救援ネットワーク(RQ市民災害救援センター)をつくり、混成部隊で現場で活動しています。行政から独立した自主部隊です。アウトドア系の人たちはこういうとき非常に強いです。テントを寝袋を持ち込み、あまり被災を受けなかったやや内陸の農村部の廃校をお借りし、基地にしています。
体育館に寝泊りしていますが、さすがに朝方はかなり冷え込みます。
http://www.ecotourism-center.jp/article.php/reliefe_01
行政機能そのものが麻痺しているこうした非常時には、阪神大震災のときもそうでしたが、自主的に自らを組織し、自己責任で機動的に動けるこうしたボランティア組織が非常に有効です。
三陸を中心とする沿岸部の被害はすざまじいものがあり、300キロメートルにわたって沿岸集落が消滅しています。
地域の復興はおろか、地域そのものが消滅してしまっているところがかなりあります。
いっぽう、同じ岩手・宮城・福島でも、内陸に入ると津波被害がなく、また地震自体による損壊被害も大きくなかったことにより、通常の市民生活が継続されている面もあります。
しかし、ガソリン不足はどこも深刻で、山形でも宮城でも、ガソリンを入れるために車が100台単位で列をなし、4〜5時間待って給油するという状態がどこでもあると聞いています。おそらく東北全体がそうではないでしょうか。
こんなとき農家は強い、という声をよく耳にします。米・野菜を作っている家は、とりあえず飢える心配もなく過ごしています。
ただ灯油が買えないことにより寒い思いをする年寄りが多くおり、健康を危ぶむ声もあります。
今回、津波被害を受けた地域の多くが古くからの漁村集落だったこともあり、伝統的なコミュニティーがまだ生きており、被災地が都市部だった阪神大震災のときと比べても、住民どうしの助け合いはかなり強固で、それが弱者を守ることにつながっています。日本の美しさを見る思いです。
また東北のみなさんは我慢強く、また謙虚で、支援物資を持っていっても、もっと大変なところに持っていってください、と言われることもしばしばです。
これから家を失った被災者のみなさんは仮設住宅に移っていくことになりますが、その際に世帯ごとにばらばらで入るのではなく、なるべくこの集落ごとのつながりそのままで集団移転できることが望ましいと思います。
阪神大震災のときは、神戸市内各区からばらばらに家を失った被災者が各仮設住宅に移ったために、コミュニティがすぐに形成されず、その間に多くの孤独死が発生してしまったという苦い教訓があります。
これからこうした自己責任・自己組織で自主的な活動ができるボランティア・NPO団体が活動できる余地がかなりあります。
まさに「新たな公共」ですね!
ではまたレポートします
]]>昨日の話を回りにいる同僚に話した所、いろいろな意見がありまし たので、私だけでなく、神戸にいる震災経験者の方々にいろいろ尋 ねました。
しかしながら、震災からはや17年?が過ぎており、具体的な事が あまりなく、お役に立てるかどうかわかりませんし、今回の災害は 私たちが経験したものと異なっているとも考えられま す。その辺りをご理解の上、集めましたアイデアをご参照ください。
震災直後から1週間
→直後は被災地におられる方々全てが被災者であり、警察官、市役 所の職員なども含めて、ご自分の家族の無事を確認と救出に走るた め、被災者達は自分たちの力だけでなんとか窮地から脱 しなければ なりません。少なくとも3日間は自分たちで「生きていく」事を考 えなければなりません。3日を過ぎた辺りから、少し余裕が持てる人々が周囲の困った方々 への手助けに行く事ができます。1週間は近所の方々と協力しなが ら、生活できる環境を作っていかなければなりません。
物資や救助隊などは、被災地への道路が寸断されており、はっきり 言って期待できません。行こうにも道がないのですから。
1週間を過ぎた辺りから、徐々に各地からの援助、救急隊や自衛隊 などが被災地へ入り、本格的な救助活動が始まります。もちろん、 地震がおきた当初から何かしらの救援隊が一部の地域で あったかも しれませんが、それが全市、全地域とまではいきません。一般市民 への救援までは約1週間はかかります。
さて、ライフラインですが、電気が最初に復旧します。電線が地面 より上にあり、修理も比較的早い。比べて、都市ガスや上下水道の 復旧はなかなか進みません。特に上下水道は悪くする と1ヶ月かか るかもしれません。
アイデア
私たち阪神間の被災者は、このような環境の中で、身の回りにある ものを工夫して使って生活を送っていました。
1段ボール、新聞紙、発砲スチロールなどは暖をとるには最適な物 資です。スーパーなどで無料で配布しているものを利用されてはど うですか?
段ボールを布団の下に敷くと熱を奪われない。新聞紙をくちゃく ちゃにし、ゴミ袋にいれると、簡易の布団や枕になります。
2ウエットティッシュ、ポケットティッシュ、おむつ用ウエット ティッシュ
3生理用ナプキン(止血用に!)
4ラップ、アルミホイル
震災直後は水が一切使えないので、お皿などを洗わなくてもいい ようにラップやホイルで覆って使う。
5水を運ぶときは、バケツの中にポリ袋を入れ、その中に水を溜 め、口を縛ります。そうすれば、バケツから水が漏れません。
6ペット様室内トイレの砂。消臭剤も入っており、人間にも使えます。
7一方、「大」の方は、バケツの中に透けないゴミ袋を入れて用を たします。終わったら袋の口を縛って生ゴミと一緒に燃えるゴミと して処分。
8紙皿、紙コップ
9道路の溝のカバーとなっており網状の板(?)を調理に利用します。
コンロや電気が使えない間は、たき火で暖をとったり、ものを焼 いたりします。その際に、この編み目の板が大きなものを焼くのに 重宝します。(普通だったら役所の人に怒られます が)
購入すべきもの
1使い捨てのマスクと手袋あれば、消毒用アルコール
避難所や被災地の衛生状況はよくありません。
2風邪薬、下痢止め、外傷用塗り薬(マキロンのようなもの)、バ ンドエイド
3レトルト食品(カレーは暖めなくてもおいしく食べられます)
4粉ミルク:子供だけでなく、高齢者の方々への栄養補給用として も利用できます 5アメ、キャラメル:当分補給には欠かせません。関西では「アメ ちゃん」は必需品。
6水を使わないシャンプー
7ミネラルウォーター
あれば便利
1カセットコンロ、ガスボンベ
2懐中電気(2、3日で不要になります)
3ガソリン、灯油 しかし、現在手に入るのが困難です。
電気が使えるようになりましたら、
1電気炊飯ジャー:ご飯だけでなく、お湯を沸かしたり、おかずを 作ったりする事もでき、便利です。
2電気鍋、ホットプレート
3ペットボトル:45度から60度までのお湯を入れて、 湯たんぽとして使います。熱すぎると溶けますのでご注意。
とにかく、水の確保が大事。この話を周囲の人とすると必ず「水」 を手に入れるのが大変だったと言います。
お風呂も入れません。2週間は無理でしょう。
喉が渇くような食品も避けた方がいいです。非常食用に乾パンがあ りますが、ものすごく喉が渇きます。乾パンは避けて下さい。
あまり深刻にならなくてもいいもの
食料。道路が開放され、救援物資が届くようになると充分すぎる程 の食料が届きます。
私たちも、パンやお米などは充分に配給されました。
水も手に入ります。衣服も手に入ります。
最初の1週間をやり過ごせると後はなんとかなります。
日本を信じて、救助はそこまで来ています。
根拠のないうわさに惑わされないように。
あとは、春がそこまで来ていますが、まだまだ寒い日が続きます。 暖をとって体を冷やさないよう気をつけてください。
折角、ここまで生きて来れたのですから、体を壊して倒れてしまわ ないよう、ゆっくり体を休めて下さい。
最後に、地震や津波で亡くなられた方々のご冥福をお祈ります。そ して、被災者の皆様、阪神間の私たちもこうして生き抜いてきまし た。気を強くもって、助け合って頑張ってください。
神戸より愛をこめて
]]>被災者の方々が大変な状況で苦しんでいる中、とても
複雑な心境なのですが、甲状腺疾患に苦しむ人々にとっては
大変重要なことなので、やはり投稿させていただきます。
神奈川県保険医協会の緊急談話によると、30万人の
人の命が危険にさらされています。
とはいえ、一般の人にはどうしようもないことです。
もし関係機関につなげる手段をお持ちの方がいらっしゃれば、
力を貸してください。私は私で、色々動いてみます。
*<神奈川県保険医協会の緊急談話のポイント>*
* *
*〇甲状腺機能低下症などの治療薬チラーヂンSは、国内供給*
* の98%を、あすか製薬のいわき市の「いわき工場」で製造。*
*〇今回の地震でこの工場の生産設備に被害が発生し、*
* 安定供給のメドがたたず。
*
*〇この医薬品の半減期は7~10日程度なので、早期に供給に*
* 関する代替措置をとらないかぎり、服用者30万人の国内の*
* 患者の命が確実に危険にさらされる。
*
*〇一刻も早く、チラーヂンSの海外からの緊急輸入と海外への*
* 支援要請が必要。*
【神奈川県保険医協会談話】
「チラーヂンSの緊急輸入・海外支援要請を緊急に」
http://www.hoken-i.co.jp/outline/h/post_16.html
【東洋経済online 11/03/16 | 19:43】
「深刻化し始めた医薬品供給。チラーヂン生産停止で甲状腺機能低下症患者60万人に深刻な影響も」
http://www.toyokeizai.net/business/society/detail/AC/c1f25c13bb3cabf9a45df3571eae7f2e/
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