神戸市長選挙を振り返り、神戸への想い。

 今の神戸の若い人たちは、神戸市が株式会社神戸と言われた時代があったことを知っているだろうか。この話をする時に、必ず、語らなければならない人がいる。宮崎辰雄元神戸市長である。氏の人生そのものが、株式会社神戸そのものであった。氏は、多感な高校時代から学生運動に紛争し、立命館大学に入ってからも、持ち前の正義感で学生運動を続ける。


 そして、氏は神戸市役所に入り、戦後の復旧、復興に携わることになる。氏のもつエネルギーは当時の上司であった原口元市長を市長に推すことでも力を発揮する。そして、氏は、その功績が認められ、三十歳代にして、神戸市助役、今で言う副市長に任命される。その後、わが国の高度成長期に乗り、神戸市も大きな発展を遂げていく。

 氏が神戸市長を辞任したのは、八十歳代半ば、まさに、半世紀以上に渡って神戸市政を牽引してきた。氏は、持ち前の反骨精神で、中央からの圧力をきらい、主に、開発事業など、数々の市独自の事業を成功させ、中央からの天下りは一切とらず、多くの収益を市独自で確保してきた。これが、株式会社神戸市と言われた所以である。

 早くは、山を削り、海を埋立て、人工島ポートアイランドを造成し、ポートピア81なる日本で先駆けの地方博覧会を開催し、大成功させ、博覧会跡地にはファッションタウンを形成し、土地を売却し、大きな収益を生んだ。また、同じこの手法で、六甲アイランド、ポートアイランド、ハーバーランド、神戸空港へと開発は続いていく。

 また、山間部には、地下鉄を走らせ、商業施設を開発し、付近に住宅販売を成功させていく。名谷、学園都市、西神などである。この手法は、やがて、地下鉄海岸線などでもいかされてきた。また、余談だが、氏と、刎頸の友であったダイエーの創業者中内功は、この沿線で店舗を出し続け、本社機能を神戸に置き続けた。

 これらの開発事業のもと、多くの土木、建設会社が育つとともに、それらに関係するあらゆる業界が神戸で大きく成長したことがわかる。まさに、神戸市の黄金時代である。また、特筆するべきことは、氏は、これらで掴んだ収益を夢にも使っていった。しあわせの村、農業公園、フルーツフラワーパーク、コンベンション施設、博物館など。

 しかし、氏の市長人生は、決して、順風だけではなかった。もともと、革新市政であった氏の市政運営には、保守系からの反発もあり、元文部大臣の砂田重民が自民党や経済界から押され、市長選に出たとこもあった。また、市の親族の経営する造園会社との疑惑が事件となったこともあった。しかし、これらの困難を乗り越え、氏が断固たる地位を築いていく。

 神戸市政は、氏が原口市長を押してから、約70年間、助役から市長、助役から市長へと市役所内部から排出され、事実上、氏の影響力をもつ職員から市長が決められていった。その間、市幹部が闘いを挑んだこともあったが、その派閥の人たちは無惨に窓際に追いやられた。兵庫県に対しても、同等、或は、氏が市長の時は、上の立場を堅持した。

 まさに清濁がわかる偉大な政治家、リーダーであった。80歳代まで、頭は切れまくった氏であったが、高齢化とともに、足も不自由となったが、氏に物を申す人材がいなくなった。政界では、高校時代の親友、国務大臣河本敏夫、官界では、元の大蔵事務次官石野信一を商工会議所に会頭に迎えいれ、強いネットワークで国をも動かしていく。

 氏が晩年力を入れた事業が神戸空港である。氏が、元文部大臣砂田重民と闘った時に、氏は、関西空港の神戸誘致反対の立場を取る。これが、氏の晩年の後悔につながる。氏は、側近の元市長総局長柳瀬氏らを実務の筆頭に、神戸空港開設の政財界の工作を命じる。そして、神戸空港事業が進もうとしている中、阪神淡路大震災が発生する。

 未曾有の大震災である。氏が人生を懸けて、築いてきた神戸の街が、戦後のように、再び、焼け野原となってしまった。また、日本経済も、高度成長期日から成熟期に入り、民間の開発型企業のどんどん窮地となっていった。時代の終焉を見るかのように、氏は世を去る。そして、それから優秀で従順な部下であった職員や職員OBが市役所を切り盛りするようになる。

 震災後、数々の論議はあったが、氏の遺言でもあった神戸空港は、強引なる手法をもって進められていく。神戸市の職員は、非常に優秀である。氏がトップダウンで市政をひっぱる中、誇りをもった優秀な人材が多く、役所に入ってきた。若き年齢で外郭団体に出向させ,経営感覚を学ばせ、本庁に戻していく。神戸市職員は本当に市役所をわが社と言う。

 しかしながら、今日、氏の作ったビジネスモデルは、完全に崩壊し、時代に通用しなくなった。ポートアイランド2期や神戸空港の埋め立て地がもう高値で売れることはない。従い、それらの収益で、借金を返すことは、もはや、不可能に近い。地下鉄海岸線も、大きな赤字を抱える。また、市役所内部では、優秀な人材より、無難な人材が幹部登用されがちになる。

 また、氏が時代をひっぱった間、あまりに、神戸市が何でもやりすぎ、神戸の民間企業は、衰えていったとも言える。1980年来では、京都と同じ規模であった上場企業の総資産も、今日では、京都に大きく開きをあけられてしまった。また、神戸経済の柱であった造船、鉄鋼なども、原子力や航空機事業などへと移行もあるが、もはや当時の活気はない。

 今、神戸経済は大きな行き詰まりを見せる。私は、学生時代に起業し、約30年間、毎日、この目で神戸市を内から外から見てきた。震災後は、開発事業を続ける市政に反発を感じ、批判もしてきたが、もはや、今、神戸市には、新たな開発などをする余裕すらない。神戸市絶頂期に入庁したエリート職員達からは、自分の人生、こんなはずでなかったと嘆きも聞こえる。

 私は、今、愛する神戸に対して思うことは、今や、まずいところがあっても、批判するだけでは、市政は良くならない。今こそ、産官民が真に協力しあい、新しい神戸を創造していかなければならない。繰り返しとなるが、神戸市職員は優秀である。トップが、きっちりとビジョンを示したら、立派に使命を遂行してくれる。

 神戸は、シンガポールと同じだけの規模がある。シンガポールは近年、その政策により、著しい発展を遂げた。来るべき、アジア新時代を見据え、アジアの金融、貿易、クリエィティブ、ソフト産業、そして、文化、芸術の拠点となるべき地域づくりこそ、今、求められている。市の職員も神戸にいる必要はない。新しいビジネスモデルを作るために、もっと、情報や人脈を築きに、アジアを飛びまくれば良いのである。

「ビジョンなきところに成長なし。」
神戸だからこそ、「産」、「官」、「民」で、
再び、「稼げる街」「幸せに暮らせる街」を築いていこうではないか。

一人の神戸市民からの願いである。

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