2007年8月アーカイブ

私もこれまで色んな会議に参加してきたが、
会議には様々な力が働き意思決定がなされていく。
多くの会議では、そこで出された意見が、全て取り入れられようとしたり、
誰かがその意見を言ったから、自分は反対となる意見は控えようと考えたり、
あの人には逆らえないと考えたり、
或は、自分が意見を言うとやらないといけないから、発言は控えようと考えたり、、。
これでは、結局、意思決定は「ごちゃまぜ」になる。

正直、一人で合理的に意思決定した方が、
一環したコンセプトが通るものになるのにと考えたりする。
なぜなら、経済学者サイモンが言っているように、
一人一人の持っている情報量や経験は違い、それぞれの量も深みも違うからである。

こうした意思決定の姿を理論化した学者がいる。
1970年代にアメリカのマーチ、コーエン、オルセンが提唱した「ゴミ箱モデル」である。
実際に行われる意思決定は合理的なプロセスを踏んでいないという理論で、
意思決定の要素として「選択機会(会議の場)」「参加者」「解」「問題」を指摘している。

集団における意思決定は、会議も回数を分けて実施し、
また時間と共に参加者の考え方も変わり、問題の捉え方も変わる。
つまり、意思決定は、まるでゴミ箱のようにたえず色々なモノが出たり入ったりして、
最終的に期限になったときの状況で意思決定が行われる。

このように集団における意思決定は、必然的に生み出されるものではなく、
4つの要素が偶然に結びついた結果でしかないという考え方だ。
言い換えると、「偶然でいいかげんだ」ということだ。

また、このモデルでは集団で意思決定を行う場面では、時間をかければかけるほど、
複雑な問題点が新たに発生したり、時間が経過するほど、
問題そのものや判断する基準が曖昧になるとしている。
参加したメンバー全員が納得できる解を探すことを重視すると、
そのプロセスの中で大事な問題点が抜け落ちたり飛ばされたりする傾向が強く
なり、失敗なるケースが増える。よくある目的と手段が本末転倒する例であろう。

今日、わが国の多くの意思決定は、これらの傾向があるのではないだろうか。
もちろん内容にもよるが、映画のシナリオや演出が複数の人でなく一人でなされるように、
内容によっては、少数または個人で意思決定されていく面も大切である。

ニスカネンは、官僚の私益は、予算規模が大であればあるほど増加すると考えます。
給料額があらかじめ定まっている官僚は、私企業のように、たとえ自らが多大の努力を
傾けて公共財や行政サービスの効率的提供を果たしても、自己の報酬を高めることは
出来ません。従って、給料以外に報酬を求めます。例えば、大きな権力、名声、多数の部下、
美麗なオフィス、専用車、立派な官舎、豊富な自由裁量予算、自由に使える交際費、
退官後の高い地位等です。これらの便益は何れも通常、その官僚自らが支配する資金が
大きくなればなるほど、又、それに伴う民間への事業発注額が大きくなればなるほど、
それらに比例して大きくなります。従って、官僚は出来るだけその為の資金、即ち予算を
獲得することに努力を傾けます。予算編成にあたっては、何よりも可能な限り大きな予算の
獲得が目的となります。
 官僚が立案、提出した予算要求は、国会で代議士が国民にかわって審議します。
しかし、審議するにあたって、代議士は、通常、官僚ほどの情報を持たないので、
官僚の提出する予算要求を詳細に検討して官僚に対抗することが出来ません。
又、予算案は、議会によって、一括して受け入れるか
一括して拒否するかの選択しかないので、議会は結局政府支出がもたらす政府サービスの
便益(効用)が、国民が負担するその費用を下回らない限り、要求額を承認することに
なるのが通常です。
 従って、出来るだけ大きな予算の獲得を目指す官僚によって、政府予算は、予算金額と
予算執行がもたらす便益とが同額になる規模まで拡大要求されます。換言すれば、
予算規模は、国民が予算の執行から得る純便益が最大となる最大規模、即ち、予算執行
から生まれる総便益と支払税額の差を最大とする規模、よりも拡大し、
その為、そうでなければ国民が得たはずの純利益は官僚の私益の拡大のための
犠牲となって消滅するとニスカネンは主張しています。
(非市場経済の制度デザイン 柴田弘文より)

北京に仕事でひさびさに訪れた。
私は、だいたい10年ぶりであったが、本当に町並みは変わっている。
日本では、段ボールぶたまんなど、偏向された報道が多くされているが、
実際は、街全体に六本木ヒルズのようなビルが建ち並び、
日本でも見れないような、お洒落なカフェやダイニングができている。
そして、ブランドショップ街も、日本に劣らず、それ以上の内容だ。
もう日本にあるもので、北京でないものはないだろう。
もちろん、貧富の差は激しく、きたない街角も多いが、
段ボールぶたまんをあれだけ報道することは、
日本の大阪の例えば西成で一人の浮浪者が大麻を販売しているシーンを
世界中に日本はこうだと報道しているに近いと思う。
実際に、私は毎日、安くておいしい、きれいな食事の毎日であった。

今回の訪中でショッキングなことは中国人民抗日戦争紀念館訪問である。
靖国問題や南京大虐殺で日本のマスコミなど一部の人は、
あれは、中国や韓国などの一部、捏造だと言う人もいるが、
実際に、この記念館で、なまなましい日本軍の虐事を見ると、
体が震える思いをした。人を生き埋めにして笑う兵。
捕虜を全裸にして、働かせ、捕虜たちが、やせ衰えている姿。
虐待される子供たちや女性達。そして、日本軍の細菌部隊。
そして、一般人百数十人を刀で切った兵を称賛する日本の新聞。
日本国内では封印され見られない歴史の事実である。
全てが事実で、一切、誇張がないとは私も言わないが、
写真や日本の新聞は紛れもない事実であろう。
あれだけあれば、そして、これだけ公然としていれば、とても否定などできない。
率直に日本人一人ひとりは事実を見つめ、深く反省しなければならない。
ホームページでこの記念館を紹介しているサイトを見つけたので、
紹介させて頂く。

http://www.beibaozu.info/beijing_tongpiao/tongpiao63.html

また、帰国後、韓国人の友人にこの話をすると、韓国にもあると以下のサイトを
紹介してくれた。

http://cgcreators.com/yuji/korea3/goumon.html

情報化時代の言われるが、私達は、やはり、偏った情報にはまっているかもしれない。
さまざまな情報を得ることによって、物事を総合的に判断していく必要がある。

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