小中高と暗記型勉強が好きではなかった私は、大学とは社会勉強をする所との考えのもと、最低限の授業を受ける以外はアルバイトやサークル活動に走った。まさしく、座学より実学にである。受験時代に聞いた言葉、「東大法学部にあらずは大学にあらず」と言う言葉も頭に残っていたかもしれない。
また、実際にアルバイトすることによって、実際の現場の生の姿や様々なコミュケーションのあり方に強い興味を持つ事になった。何十種類のアルバイトを経験したと思う。そして、私の人生を決めることになるのが、友人たちと始めた企画サークルである。始めはイベントを企画実施するだけであったが、自分達で意思決定できる魅力、又、結果を出さなければ責任を追わされる緊張感に取りつかれ、邁進してしまう。
その結果、大学3年生の時には事務所も設け、自分たちでテレビ局の電波を買い、番組をプロデュースしたり、大手企業からキャンペーンなど、多くの仕事をもらえる状態となった。また、当時はリクルートやパソナが学生起業から出発した会社として注目されていたようなこともあり、学生企業ブームであった。その当時、集まっていた学生起業家たちのほとんどは今も会社経営を続けており、良い友人であり、良い刺激となっている。
真面目に授業も出ないで、こんな学生生活を送った私は本来の大学生としては失格であったであろうが、4年間を通じて1万人近い社会人の人の名刺がたまった。無我夢中で走り続けた学生時代であったが、社会が見えてきているが由に、就職については悩んだ。多くの社会人の人に食事に連れて行ってもらいながら、よく会社の愚痴を聞かされ、嫌だだったら辞めたら良いのにと、よく感じていたりしていたからだ。
結果として、4年間で大学は無事に卒業できたのは良いのだが、まともな就職活動もせず、仕事に邁進している私は就職もできず、卒業後も自分で仕事をする状態を続けてしまう。社会勉強のつもりで何社か就職面談も受けたが、面談で出来た人脈を仕事につなげようなどと考えていた私を企業側は従順さがない生意気な学生に見え、相手にしなかったのだとう。
捨てる神もあれば拾う神もありと言うが、悪戦苦闘しながら会社経営を続けていた時、私はある大手旅行会社の関連会社の幹部の方と出会う。運命の出会いである。この時、この大手旅行会社はJRが本格的に旅行事業に乗りだすため、駅の構内から追い出されている時期であった。危機感をもったこの会社は旅行業を取り巻く様々な事業にチャレンジしていた。
大手企業の中を見てみたいと思って私はこの会社と契約を結び、社員のような形で様々な仕事をさせてもらった。主に、博覧会や自治体の地域活性化事業、また、企業の活性化事業などである。それまで会社ごっこをしていた私にとっては、大変、勉強になった。結局、この会社にはわがままを言いながら約3年間お世話になった。この幹部の方は、その後、社長に成られ、大きな業績を残され定年退職されたが、今もお世話になっている。
そして、第二の私の本格的な起業が始まる。お世話になった旅行会社グループにも未練があった私はこの会社に株式の出資をお願いすることになるが、快く応じてくれた。当時、25歳であった若造のわがままを、よくぞ聞いてくれたと思う。良いように言うと大手旅行会社の関連会社最年少の社長だったとも言える。現在は自身の路線を続けていきたく、この会社からの出資は引き上げて頂いている。
これが私の大学生活から起業までの流れである。その後も仕事での苦労は色々と続くが、仕事の事は別の機会に書くとして、40歳を迎えた時に自分の人生を考えるようになった。これまで学術分野には興味がなく、実践社会で「なぜ?なぜ?」の繰り返しを探求してきた私であったが、ある時、お世話になっている方から衝撃的な事を言われた。「知恵は知識があってこそ生きる。」私にとって衝撃的な言葉だった。
気がつけば、霞ヶ関で東大を卒業した友人が増え、彼らが公費で海外などの大学院に行っていることも羨ましかった。そこで、決心である。「大学院に行こう。」しかし、文章は書かせることは多くても書く事は少ない。研究という意味もわからない。大学の成績も恥ずかしい限りだ。こうした中、たまたま興味があった情報という分野と仕事をしながら通えるということで、幸いにも兵庫県立大学の応用情報科学研究科に入れてもらうことができた。
大学院は本当に新鮮で勉強になった。また、この大学院は良い先生が多かった。残念だった事は、やはり、学術研究は学術研究。実践の仕事で役立つ情報戦略は学べなかった気がする。しかし、長い間、使ってこなかった脳を使うことは、非常にリフレッシュとなる。また、長い仕事で緊張することもなくなっていたが、授業はまさに緊張の連続であった。良い刺激である。また、何より若い現役学生と一緒に過ごせることは私の原点に戻れた。
良い指導教官にも恵まれ、あっと言う間に2年の月日が流れたが、今度は大学を離れることが嫌になり、だからと言って、博士後期過程に行き、研究を続けるだけの仕事の余裕もかなったので、京都大学の公共政策大学院に行かせてもらうことにした。
正直、勉強を得意としなかった私がこの齢で京都大学のキャンパスで授業を受けることは夢にも思っていなかったし、まさに夢でもあった。京都は学生の街。寺院や緑に囲まれ、最高の日々であった。大学院で得たことは人脈につきると思う。教授陣も学生も私が過去に見てきた人たちとは全く違うタイプの人がたくさんいた。素晴らしく心から尊敬できた。人生は、永遠、違う世界にも飛び込み続け、自分を鍛錬していくべきだ。
ここに書いてきた事は自慢にもならない程度の低い話だが、生の声を聞く事により、現役の学生の皆さんにも、もっと多くのことに勇気をもってチャレンジしてもらいたいし、又、社会で働いている皆さんにも仕事も続けながら、もう一度、学生に戻るというような新たなチャレンジをして頂きたい。私は自分に言い聞かしている言葉がある。「無理をしてもやれる時はできる。」「無理をしてもできない時はできない。」