二十数年前、大学に入学した私は、
多くが百人以上の大教室で出席もとらず、
先生もやる気なく授業を進める姿を見て、
大学は自由な時間の中で社会勉強をする所だと思い、
企画サークル活動に邁進した。
多くの社会人との出会いは大きな勉強となった。
結果、私は学生時代に起業する。
まだ、大学を出れば就職するのが当たり前の時代。
学生ベンチャーの走りであったかもしれない。
その当時のゼミの先生に社会はそんなに甘くない。
就職しなさいと怒られたのを思いだす。
今、確かに社会はきびしかったと思う。
いばらの道の連続であった。
しかしながら、二十数年、いばらの道を歩いてきて、
いばらの道にも慣れたきた気がする。
今の時代、リスクに慣れる生き方こそが大切だと思う。
昨日、京都大学大学院の歓迎講演会及び懇親会に行った。
講演の名誉教授が法科大学院や公共政策大学院の至らぬ部分を
堂々と批判していた。ずばり、理論で世の中はかたづかない。
常に、世の中は動いており、研究科もその過程である。
あらゆる研究活動の結果が大学院にあるわけではなく、
問題解決のきっかけに大学院がなればいいという考えである。
まさに、その通りである。
本音で語ってもらえる姿に、京都大学の底の深さを感じた。
また、大学が行なう学内の懇親会にビールがでてきた。
これもまた、自由をうたう京都大学の校風かもしれないが、
学内の行事で学生に酒を出す器の大きさを感じた。
聞いた話のなかで印象に残ったことは、
今までの日本の東大、京大の法学部は官僚養成機関であったとのこと。
しかし、これからは官僚だけが日本を担っていくのではない。
公共政策は決して、官僚だけが行なうものではない。
市民一人ひとりがこの国の主体者となり、
官僚に負けないだけ、
この国、この街の主体者としての気構えを持たなければならない。