松村つとむ: 2009年8月アーカイブ

 今日の神戸新聞の四コマ漫画に選挙では自転車で走り回っている人が、
当選後、国会に登庁するときは、みんな黒塗りの運転手つきになることが、
コミック化されていた。

 確かに、誰か自転車で国会に登庁して、
普段でも自転車を乗り回す政治家がほしいものだ。
選挙のときだけ庶民ぶって、バッジをつけると高官気取り。良くない事だ。

 企画制作部門の社員の補強のため、久々に職安を訪れ求人情報を出した。

 
 多くの人々がコンピューター画面で仕事を探している。
私も求人情報はどのように出るのか見てみたかったが、
いっぱいでとても見れそうにない。職安は大繁盛の様子。


 求人広告は、職員の素早い対応で翌日にはネットにも掲載された。
そこからが驚くべき状況だ。掲載後、驚くように希望者からの応募電話が殺到した。
法人化してからでも20年以上たつが、これまで、これだけの応募があったことはない。


 2日間だけで数十人の応募があった。おそらくこれからもこの勢いは続くだろう。
私も気持ちを引き締め、昨日から面接に望んでいる。
そこで、また、びっくりしたのが、そうそうたるキャリアの方が多い。


 いったい、今の社会はどうなっているのだろうか。
まともに働く有能な人にも全く仕事がないようだ。
多くの人が数ヶ月近く職安に通って新しい情報を追っている。
しかし、今やヘルパーや看護婦などの求人以外の求人はほとんどないらしい。


 多くの素晴らしいキャリアや能力を持った人が、
数ヶ月近く職安に通い、やっと応募に行ってもほとんど不採用。
これでは、まともな人間でもテンションはどんどん落ち込んでいくだろう。
また、多くが家族からも責めを受け、悲壮感にあふれている。


 話を聞くにつれて、社会の深い病みが見えてくる。
前の会社の退職の理由も、倒産、廃業、廃部門、また、給料の未払いなどである。
政治家たちは、ただちにこの現状をよく把握し、すぐに解決に取り組んで頂きたい。


 このままでは、鬱病や自殺者があふれる日本社会になる。
政治家の仕事は社会の病みを取り除いていくことである。
私自身もあらためて強く気が引き締まった一両日であった。

鳥かごと青空

 学生時代に大人たちに話をしていて感じたことがある。
彼らはお酒を飲みながら愚痴を言い、学生時代は楽しかったと言う。
若かった私はその言葉をストレートに受け止め、
そんなに嫌なら会社を辞めたら良い。今からでも学生をしたらと思ったものだ。

 
 あれから二十数年の時間がたった。
今思えば、耐えることの大切さ。我慢の必要性も感じる。
ある意味、人生を生きて行くには、我慢や忍耐が必要だ。
また、こうした我慢や忍耐を経て人は成長していくのであろう。

 
 しかしながら、おかしいと思ったことに対して、
いったいいつまで、我慢、忍耐することが必要なのだろうか。
死ぬまで我慢、忍耐するのが大人の生き方なのであろうか。

 
 学生時代に起業し、鳥かごから飛び出した私は我慢や忍耐力が弱い。
おかしいと思ったら、誰にでも意見を言い行動してしまう。

 
 かごを飛び出したら、毎日は自由である。しかし、青空もあれば荒天もある。
誰かがかごに餌を与えてきてはくれない。自分の力で食べていかねばならない。
自己責任である。嵐が来ると、じっと、晴れるまで耐えて待つしかない。
もちろん、こうした意味での我慢や忍耐力はついてくる。


 かごにいれられていた人が自由になった時、
最初は喜んで、自由に青空を飛び回るかもしれないが、
やがて、毎日の時間をどう過ごすか、迷うようになるかもしれない。
また、安全なかごの中でゆっくり過ごしたいかもしれない。

 
 空の中で生きていくためには、自分で決断し自分の責任で行動しなければならない。もちろん、幸せではあるが、とても厳しいことは十分に知っていなければならない。

理屈と本音

 役所の文書、官僚の発言は理屈づけがうまい。
話を聞いていると、ついその気になってしまう。
しかしながら、冷静に考えると彼らの話は本音ではない。
無難にこなしているのである。


 文書や発言のテクニックが完璧ではあるが心がない。
役人通しで陰で話している姿と違う。


 役人にも、もちろん素晴らしい人、尊敬できる人は多くいる。
彼らと個人的に本音で話してているときは、本音の実感があり、
熱いものを感じることも多い。

 
 どうして、公になると本音を消してしまうのだろう。
いや、消さざるをえなくなるのだろうか?

 
 それが大人の世界だ。本音を話してどうする。
実際は、時代とは違うところで動かしていくものなのだ。
と言われてしまえば、変に、少し理解してしまいそうにもなるが、
それで、本当に良いのであろうか。


それで本当に市民のための社会が出来上がるのであろうか。


 理屈をきれいに言う役人を見ると、
ただ、今までのやり方を継承し、自分の地位を保全するがためだけに、
あなたの大切な命の時間を使っているにすぎなく見えてしまう。
今、必要なことは完璧な文書ではなく、本音の開かれた討論ではないのだろうか。

 
 激動する時代において新しい時代を切り開くためには、
理屈ではなく、何にでもチャレンジする精神こそが必要なのだ。

 最近、私の仕事の原点であるイベントの仕事に追われている。
25年前、大学生であった私はふとしたことで友人たちとイベントを行い、
そこから学業を疎かにして夢中になっていった。
その時、作った企画サークルの名前が現在のグローバル21である。


 さすがに体力は衰え、昔のようにそうむちゃはできなくなったが、
けっして、儲かるビジネスではないが、やはり、イベントはおもしろい。
創りあげていく喜び。達成感。そして、多くの人々の笑顔が見れる。


 点と点を線にし、線と線を面にし、面と面を立体にしていく、
これこそが、新たなイベントの姿であり、政治もイベントであると考えたが、
政治の世界の実態は残念ながらそうでもない。


 個人の利益やしがらみにより保身が働き、そのため足を引きずり合う世界。
食べていくため、自分の地位を守るための職業としての政治。


 イベントを極めた方が人々に真の喜びを提供できるのではと考えたりする。