松村つとむ: 2010年11月アーカイブ

 小中高と暗記型勉強が好きではなかった私は、大学とは社会勉強をする所との考えのもと、最低限の授業を受ける以外はアルバイトやサークル活動に走った。まさしく、座学より実学にである。受験時代に聞いた言葉、「東大法学部にあらずは大学にあらず」と言う言葉も頭に残っていたかもしれない。

 また、実際にアルバイトすることによって、実際の現場の生の姿や様々なコミュケーションのあり方に強い興味を持つ事になった。何十種類のアルバイトを経験したと思う。そして、私の人生を決めることになるのが、友人たちと始めた企画サークルである。始めはイベントを企画実施するだけであったが、自分達で意思決定できる魅力、又、結果を出さなければ責任を追わされる緊張感に取りつかれ、邁進してしまう。

 その結果、大学3年生の時には事務所も設け、自分たちでテレビ局の電波を買い、番組をプロデュースしたり、大手企業からキャンペーンなど、多くの仕事をもらえる状態となった。また、当時はリクルートやパソナが学生起業から出発した会社として注目されていたようなこともあり、学生企業ブームであった。その当時、集まっていた学生起業家たちのほとんどは今も会社経営を続けており、良い友人であり、良い刺激となっている。

 真面目に授業も出ないで、こんな学生生活を送った私は本来の大学生としては失格であったであろうが、4年間を通じて1万人近い社会人の人の名刺がたまった。無我夢中で走り続けた学生時代であったが、社会が見えてきているが由に、就職については悩んだ。多くの社会人の人に食事に連れて行ってもらいながら、よく会社の愚痴を聞かされ、嫌だだったら辞めたら良いのにと、よく感じていたりしていたからだ。

 結果として、4年間で大学は無事に卒業できたのは良いのだが、まともな就職活動もせず、仕事に邁進している私は就職もできず、卒業後も自分で仕事をする状態を続けてしまう。社会勉強のつもりで何社か就職面談も受けたが、面談で出来た人脈を仕事につなげようなどと考えていた私を企業側は従順さがない生意気な学生に見え、相手にしなかったのだとう。

 捨てる神もあれば拾う神もありと言うが、悪戦苦闘しながら会社経営を続けていた時、私はある大手旅行会社の関連会社の幹部の方と出会う。運命の出会いである。この時、この大手旅行会社はJRが本格的に旅行事業に乗りだすため、駅の構内から追い出されている時期であった。危機感をもったこの会社は旅行業を取り巻く様々な事業にチャレンジしていた。

 大手企業の中を見てみたいと思って私はこの会社と契約を結び、社員のような形で様々な仕事をさせてもらった。主に、博覧会や自治体の地域活性化事業、また、企業の活性化事業などである。それまで会社ごっこをしていた私にとっては、大変、勉強になった。結局、この会社にはわがままを言いながら約3年間お世話になった。この幹部の方は、その後、社長に成られ、大きな業績を残され定年退職されたが、今もお世話になっている。

 そして、第二の私の本格的な起業が始まる。お世話になった旅行会社グループにも未練があった私はこの会社に株式の出資をお願いすることになるが、快く応じてくれた。当時、25歳であった若造のわがままを、よくぞ聞いてくれたと思う。良いように言うと大手旅行会社の関連会社最年少の社長だったとも言える。現在は自身の路線を続けていきたく、この会社からの出資は引き上げて頂いている。

 これが私の大学生活から起業までの流れである。その後も仕事での苦労は色々と続くが、仕事の事は別の機会に書くとして、40歳を迎えた時に自分の人生を考えるようになった。これまで学術分野には興味がなく、実践社会で「なぜ?なぜ?」の繰り返しを探求してきた私であったが、ある時、お世話になっている方から衝撃的な事を言われた。「知恵は知識があってこそ生きる。」私にとって衝撃的な言葉だった。

 気がつけば、霞ヶ関で東大を卒業した友人が増え、彼らが公費で海外などの大学院に行っていることも羨ましかった。そこで、決心である。「大学院に行こう。」しかし、文章は書かせることは多くても書く事は少ない。研究という意味もわからない。大学の成績も恥ずかしい限りだ。こうした中、たまたま興味があった情報という分野と仕事をしながら通えるということで、幸いにも兵庫県立大学の応用情報科学研究科に入れてもらうことができた。

 大学院は本当に新鮮で勉強になった。また、この大学院は良い先生が多かった。残念だった事は、やはり、学術研究は学術研究。実践の仕事で役立つ情報戦略は学べなかった気がする。しかし、長い間、使ってこなかった脳を使うことは、非常にリフレッシュとなる。また、長い仕事で緊張することもなくなっていたが、授業はまさに緊張の連続であった。良い刺激である。また、何より若い現役学生と一緒に過ごせることは私の原点に戻れた。

 良い指導教官にも恵まれ、あっと言う間に2年の月日が流れたが、今度は大学を離れることが嫌になり、だからと言って、博士後期過程に行き、研究を続けるだけの仕事の余裕もかなったので、京都大学の公共政策大学院に行かせてもらうことにした。

 正直、勉強を得意としなかった私がこの齢で京都大学のキャンパスで授業を受けることは夢にも思っていなかったし、まさに夢でもあった。京都は学生の街。寺院や緑に囲まれ、最高の日々であった。大学院で得たことは人脈につきると思う。教授陣も学生も私が過去に見てきた人たちとは全く違うタイプの人がたくさんいた。素晴らしく心から尊敬できた。人生は、永遠、違う世界にも飛び込み続け、自分を鍛錬していくべきだ。

 ここに書いてきた事は自慢にもならない程度の低い話だが、生の声を聞く事により、現役の学生の皆さんにも、もっと多くのことに勇気をもってチャレンジしてもらいたいし、又、社会で働いている皆さんにも仕事も続けながら、もう一度、学生に戻るというような新たなチャレンジをして頂きたい。私は自分に言い聞かしている言葉がある。「無理をしてもやれる時はできる。」「無理をしてもできない時はできない。」
 私は約4年前、偶然、中国の義烏市という街と出会い、この街の持つパワー、又、人々の人柄の良さに強い魅力を感じ、すぐに現地に事務所を設けてスタッフを置き、視察、商品の買付け、検品、輸出などの業務を始めた。義烏は、日本では百円ショップの仕入れ先として有名になった街だが、もともと貧しい農村であったが今では8万軒の問屋側がビルに入居し、この20年間で2800倍のGDP成長をとげ、毎日20万人のバイヤーが訪れている。

  義烏の卸売市場の魅力は、別の機会に詳しく書くとして、今回は、こうした経験から得た中国でのビジネスについて述べてみたい。まず、最初に多くの人が抱く印象として、中国は大丈夫か?危険はないか?騙されないか?ということであろう。確かに、1980年代から2000年始めぐらいまで中国に進出した日本人は騙された人が多い。至るところに共産党や公安や軍に強いと名乗る人が現れては騙されたと聞く。

 しかし、私のこの4年間の義烏の経験では、そうした事態は減ってきているように思う。私はこの4年間で数十回の訪中を行ってきたが、私がそう思う理由として次の三点があげられる。まず一つ目に、現地の人々が若返っていることである。役所も企業も本当に若い人がトップについている。30代、40代が中心となり、歳がいっても50代。義烏ではこうした人々が苦労をしながら、実際のビジネスで信用を重ねることから這い上がってきている。

 二つ目に政府の指導層の高学歴化である。義烏の場合、政府のトップも市長も40歳代前半。政府の幹部は大学や大学院などを卒業し、海外に留学や派遣された経験を持ち、高い教養を持っている。博士やMBAを持ち、3ケ国や4ケ国の言葉を話す人も少ないない。欧米など先進国で彼らは十分なマナーを教えられ、現在、義烏市職員は200ケ国以上の国々の人々とつきあいをもっている。

 三つ目にあげられるのが、やはり、経済力だろう。義烏は中国でも有数の富裕層が住む街となった。街にはベンツ、BMWが多く走り、高級レストランも賑わう。お金を持った人たちがお金を騙し取る必要もなければ、そんな事をして信用を無くすと大変なことになる。正直、私も義烏の人と恐れながらつきあってきた。しかしながら、会食一つとっても、私に会計も払わせてくれず、いつもご馳走になっているのが現状である。

 ひと事で言うと、中国はこの20年間で一気に近代化が進んだからと言えよう。また、この近代化は止まることなく、内陸部にも進んでいる。聞いたところによると、今では沿岸部より中央政府の投資が盛んである内陸部の方が進んできたと聞く。日本を訪れる中国人購買力を見てもわかるように、中国人は今、豊かになった。日本人がこれまでもってきた中国人への感覚は変えた方が良いと言えよう。

 次に、皆さんが心配することに反日感があるだろう。日本のマスコミでは尖閣諸島問題など、繰り返し、中国の反日デモなどが報道されている。あれを見ると誰もが訪中を恐れるだろう。ただ、これは中国でも同じである。東京の反中デモや福岡で右翼が中国人観光客を取り囲む映像が中国でも連日流されている。それを見た中国人が怯えることは理解できるであろう。

 実際のところ、私は尖閣諸島問題以降も何度も訪中しているが、危険な目にあったり、危険な場面を見たことがない。至って中国人も親切である。むしろ、外国人を見て向こうが怯えているとさえ言える。これは、日本でも同じである。普通に歩いている中国人に危害を与えたりするのは、余程、変な日本人であり、そんなことはまずない。百聞は一見にしかずと言うが、本当に物事は自分の目で確かめることが大切だと思う。

 次に、中国人とのつきあい方である。私も、中国人の友人が日本に来た時、観光や買物につきあう事が多いが、確かに偉そうにしている。しかし、ずっと一緒にいると、これらは知らない国で不安から出てくる恥じらい、虚勢であることがわかってくる。私はつっこんで本音で接するようにしている。酒も飲む。そうすると、彼らは、実に礼儀正しく、マナーを心得た行動をとるようになる。

 一昨年、義烏から社員千人を超える社長たちが大阪にやってきた。私は買物などに長い時間おつきあいし、夜には高級店ではないがレストランに招待した。そこでは、何と社長達が正座でお辞儀をして、地元の歌と踊りで感謝をしたいと、全員で歌と踊りを披露してくれた。昼間は偉そうに高い物を買い続けていた彼らの違う側面を見た。本当は心のやさしい人たちなのである。

 中国人の経営者の部屋には帆船が飾られている。ビジネスは風に乗ることが大切だという意味だ。「一帆順風」と言う。たった数時間で数万円もあれば気軽に行ける中国。日本人もメディアに騙されることなく、一人一人が実際に自分の目で確かめ、自分の手で風に乗り、新しい日中関係を築いて行くことが大切であると感じている。やがて、アジアにおいても国境がなくなる時代が到来するだろう。

 義烏についてご興味のある方は、http://www.aio-inc.com

経済成長戦略

 国の借金が900兆円になったと聞く。私は、経済成長時代でもない今、増税する前に、まず、ダイナミックに役所の経費を身の丈にあった内容に削減するべきだと考えるが、やはり、大切なことは経済成長戦略である。経済成長があれば、自然と税収はあがる。この不景気な状態の中で、増税するような事になれば、さらに、社会の行き詰まり感が進む。

 では、どうすれば、この国で経済成長ができるのだろうか。これは、難しい問題である。戦後、わが国は、欧米諸国の工場として、大きな成長を遂げた。また、それに伴い、株や不動産も値段が上がった。しかしながら、韓国や台湾の経済成長、そして、近年はもの凄い勢いでの中国の経済成長により、日本のこれまでの成功モデルは通用しなくなった。

 しかしながら、成熟社会を迎えた我が国は、相変わらず、これまでの成功神話を信じ続け、大きな変革、挑戦をしようとしていない。まさに、ぬるま湯で炊かれたカエル状況である。情報通信の発達や空港整備などにより、今、より世界は近くなってきている。少なくとも、これからの若い世代は、アジアを一つの国に見立てた行動をとるべきであると私は考えている。

 例えば、地方自治体においても、このことはあてはまる。今、中国を始め、アジアの地方都市は劇的な発展を遂げている。しかし、近代的都市を築くためのノウハウ。つまり、建設、交通、水道、下水、福祉、医療、又、環境、災害対策などの知識、知恵は少ない。例えば、地下鉄を走らすにしても、電車は企業に発注できても、運営ノウハウは自治体が持っている。

 日本の自治体は、大幅な支出削減を行い、人員の削減も行い、削減された職員は自治体の第3セクターでも良いので、こうした公共サービスをアジアの各都市から請け負う会社を設立すれば良い。そして、この第3セクターと一緒になって、これまで役所から仕事をもらっていた会社がアジアの各都市で仕事をもらえば良いのである。日本の人口は減っていくのであるから、地域のサービス予算も小さくなるのはやむをえない。

 繰り返すが、これからの時代、日本は国内だけを見ていても生きてはいけない。中国は欧米諸国、そして、特にアフリカ諸国に力を入れているのがわかる。わが国も、世界を見なければいけない。車や電気製品で世界を見る事も大切であるが、日本が経済成長先輩国として、これまで進んできたノウハウなどをもっと積極的にアジアに売っていかなけばならない。

 日本は、経済成長している国々の見本国として、都市づくり、福祉づくり、環境づくりなど、人々が安全で安心に暮らせる社会づくりをしていくプロデューサー・コンサルタントとして、アジアの都市で、指導し、育てていく仕事があるのである。これが、私が考える経済成長戦略のアイデアである。行政経営は継承ではだめだ。時代が変わっているのだから、挑戦こそ大切でなのである。

 私の住む街、神戸市もかっては、株式会社と言われ、都市経営の神様と言われた時代があった。今は疲弊する神戸だが、今こそ、これまで培ってきたノウハウを世界に売っていく時代だと私は考えている。私が市長であったなら、神戸の素晴らしい技術、ノウハウを中国の各都市に、そして、世界に売って回る。

 都市のリーダーは、元気な街、すなわち、稼げる街を作っていくことこそが大切なのである。国際都市、先進都市と言われてきた神戸のような街こそが、頑張らなければならない。今こそ、守りのリーダーではなく、攻めのリーダーが求められている。